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勇者になれなかった俺、配属先の「雑務課」で世界最強の組織を作ってしまう  作者: 限界まで足掻いた人生
雑務課 業務日誌総括

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第116話:帳簿の崩壊

深夜の執務室を支配していたのは、絶望的なまでの書き込み音と、魔導モニターが悲鳴を上げるような排熱音だけだった。

これまで、どれほどの惨劇も「不慮の事故」や「管理不備」というラベルを貼って処理してきた俺の万年筆が、ついにその動きを止めた。


インクが切れたわけではない。

書くべき余白が、この世界のどこにも残っていないのだ。


「報告……。いえ、計上不能です。中央広場における人族とドワーフの衝突。推定死者数、四百。エルフによるスラムへの無差別魔導爆撃、死者数……不明。集計用の魔導回路が、流入する負のデータ量に耐えきれず、物理的に焼き切れました」


ミラの瞳が、警告を告げる赤色に明滅している。

彼女の指先は、処理しきれなかった膨大な未処理案件のホログラムに埋もれていた。

それはもはや、整理されたリストではない。ただの、血に濡れた名前と数字の濁流だ。


「係長、もう無理です。これ以上、何をどう書き換えればいいんですか」


サニアが、インクで黒く汚れた両手で顔を覆った。

彼女のデスクには、受理されるはずのない数千枚の死亡報告書が、雪崩のように崩れ落ちている。

かつては「誤差」として処理できた数字が、今は「戦争」という巨大な質量を持って、事務屋のプライドを押し潰していた。


「……帳簿が、燃えているな」


俺は、デスクの端で静かに発火し始めた分厚い台帳を見つめた。

魔法的な拒絶反応だ。

現実の凄惨さが、事務的な隠蔽の許容量を完全に超えた時、事実に即さない記録は自ら崩壊を始める。

俺たちが築き上げてきた、完璧な「平和な世界の記録」が、黒い灰となって夜風に舞っていく。


「勇者。お前が言っていた通りだ」


部屋の隅で、もはや抜くことのない聖剣を抱えて座り込んでいた勇者が、ゆっくりと顔を上げた。

彼を見つめる俺の視線には、かつての管理者としての傲慢さはひとかけらも残っていない。


「俺のペンじゃ、この死体の山を透明にはできなかった。帳簿の上で世界を救ったつもりでいたが、俺がやっていたのは、ただの『死体の数え間違い』の修正に過ぎなかったんだ」


勇者は何も答えなかった。ただ、執務室の外から聞こえてくる、王都が崩壊していく重い音に耳を澄ませている。

かつての英雄を称える歌は、今や断末魔の叫びにかき消されていた。


トウマが、最後の一枚となった紙の報告書を俺の前に置いた。

そこには数字も、名前も、分類もない。ただ、真っ赤な血の跡が、この世界の現状を雄弁に物語っていた。


「係長。物流も、通信も、そして法も。すべてが死にました。私たちが管理していた『王都』という名のシステムは、今この瞬間、物理的に消滅しました」


トウマの眼鏡の奥に宿っていた冷徹な知性は、今はただの虚無に支配されている。

事務屋として、整理整頓された世界を愛していた彼にとって、この無秩序な地獄は死よりも受け入れがたいものだった。


俺は、燃え尽きようとしている台帳を素手で掴み、ゴミ箱へ叩きつけた。

熱が手のひらを焼くが、痛みすらも遠い世界の出来事のように感じられた。


「……いいだろう。帳簿が崩壊したなら、新しい帳簿を作るまでだ」


「新しい帳簿?」


サニアが顔を上げた。


「ああ。平和を維持するための管理記録じゃない。……この世界が、どうやって、誰のせいで、どれほど無様に終わっていったか。そのすべてを、一文字も漏らさず、一滴の血も無駄にせずに記録する。それが、世界最強の部署、雑務課に課せられた、最後で最悪の業務だ」


俺は、予備の引き出しから、まだ封も切っていない新しいインク瓶を取り出した。

もはや、誰に提出する報告書でもない。

誰も読まない、世界の終焉を綴る日記だ。


「ミラ。生存者のカウントは続けろ。サニア、食料の配分記録を『遺言』として整理しろ。トウマ……お前は、この崩壊の全プロセスをデータに焼き付けろ」


窓の外では、王都を二分する境界線が、爆炎によってさらに鮮明に描き出されていた。

平和という名の嘘が剥がれ落ち、そこには剥き出しの憎悪と絶望だけが横たわっている。


「勇者。お前は、まだそこに座っているのか」


勇者が、ゆっくりと立ち上がった。その背中には、かつての光はない。だが、絶望を受け入れた者だけが持つ、不気味なほどの静寂が漂っていた。


「……ああ。お前がそのクソみたいな記録を書き終えるまで、この部屋のドアは、誰にも破らせねえよ」


ペンの音が、再び響き始めた。

世界最強の部署。

かつては世界を支配し、今は世界の終わりを記録するだけの、孤独な墓守。

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