第113話:雑務課の提案
執務室の空気は、もはや事務作業を行うためのものではなかった。開け放たれた窓からは、王都を分断する境界線上で焚かれる、威嚇のための魔導火の匂いが流れ込んでくる。
俺のデスクの上には、血の滲むような思いで書き上げた一冊の分厚い公文書が置かれていた。
タイトルは、『王都圏における暫定停戦および人道回廊維持に関する管理規約』。
これが、事務屋として、そして世界最強の部署として俺たちが提示できる、最後の「平和の延命策」だった。
「係長、各種族の軍事指導者たちへ、同時にこの規約を送信しました。内容は、非武装地帯の設定、医療物資の共有、そして何より――『先制攻撃の禁止』を事務的に定義したものです」
ミラの報告に、サニアが縋るような視線を向けた。
「これに合意さえしてくれれば、まだ引き返せます。たとえ国が分かれても、殺し合いという赤字を出さずに済む。彼らだって、自国の兵士が無駄に死ぬのは望んでいないはずです」
サニアの言葉は、平和な時代の論理だった。だが、今の王都を動かしているのは、論理ではなく、剥き出しの被害妄想と膨れ上がった軍事力だ。
無視される「正論」
俺のモニターには、各種族の司令部からのレスポンスがリアルタイムで表示されていた。
人族守備軍: 既読。回答なし。
ドワーフ独立旅団: 「規約第5条の資源配分に不備あり」として即座に却下。
エルフ魔導兵団: 「人族の軍事行動が停止されない限り、検討の余地なし」との返答。
獣人連合軍: 通信そのものを拒絶。
「……誰も、守る気がないんだな」
俺は椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。
俺が提示した規約は、完璧だった。互いに最小限の損害で、最大限の現状維持を約束する、事務屋としての最高傑作だ。だが、戦場という狂気の中にいる連中にとって、事務屋の書いた「正論」は、自分たちの足を止めるだけの邪魔な鎖に過ぎない。
「係長! 境界線上で人族の偵察隊がドワーフの検問所を突破しました! ドワーフ側は直ちに報復攻撃を開始。……俺たちが送った『停戦ルール』のメールが届いてから、わずか三分後の出来事です」
カイルの声が絶望に震える。
画面の中では、俺が設定したはずの「非武装地帯」に、ドワーフの魔導砲弾が雨あられと降り注いでいた。俺たちが引いた安全な線は、皮肉にも攻撃目標を特定するための「座標」として利用されていた。
事務屋の無力
「勇者。お前、笑っているのか」
部屋の隅で、鞘に納めたままの聖剣を抱え、窓の外の爆炎を見つめていた勇者が、低く、乾いた笑いを漏らした。
「……笑うしかねえだろ。事務屋、お前のペンは確かに世界を変えた。でもな、あいつらにはもう、文字を読む余裕なんてねえんだよ。目の前の敵が憎くて、怖くて、そいつを消すこと以外、頭にねえ。お前がどんなに綺麗な『ルール』を並べても、引き金を引く指を止める力は、その紙切れにはねえんだ」
勇者がゆっくりと立ち上がり、執務室のドアへ向かった。
「どこへ行く」
「決まってんだろ。ルールを守らねえバカどもの真ん中に立って、俺の体がルールだってことを教えてやるんだ。……お前のペンがダメなら、俺の剣で『一時停止ボタン』を押してきてやるよ」
勇者の背中が、夜の闇に消えていく。
俺はデスクに残された、誰にも読まれることのない規約の山を見つめた。
事務屋は、世界を平和にすることはできる。だが、壊れようとする世界を止めることはできない。ルールとは、それを守る意志がある者たちの間だけで機能する、あまりに脆い幻想だった。
「サニア、トウマ。規約の再送はやめろ」
俺はペンを折り、灰皿の中で燃え盛る境界線の映像を見つめた。
「彼らがルールの価値を思い出すのは、自分たちの流した血で、この規約が真っ赤に染まった時だろうよ。……それまで、俺たちはこの『無駄になった仕事』を、ただ記録し続けるしかない」
窓の外では、次なる爆発音が王都の夜を震わせた。




