第109話:処理不能
執務室を支配していたのは、かつてないほどの無機質な静寂だった。シュレッダーが止まり、魔導モニターの冷却ファンの音だけが、耳鳴りのように響いている。
俺のデスクの上には、通常の「案件」を処理するためのトレイがあった。だが、今そこにあるのは、トレイから溢れ出し、床にまで零れ落ちた報告書の山だ。それらすべてに、昨夜の衝突で流れた血の匂いが染み付いているような錯覚に陥る。
ミラが、震える指でメインモニターの表示を更新した。
「報告……不可能です。スラム全域、および王都近郊の居住区において、同時多発的な『不備』が検知されています。人族と獣人の小競り合い、ドワーフによる資源搬入路の封鎖、エルフによる魔導通信の妨害。……これらすべてを『事故』や『暴動』として書き換えるための論理回路が、過負荷で停止しました」
ミラの瞳から、光が消えかかっている。
これまでどれほど過酷な事務作業も平然とこなしてきた彼女が、初めて「処理」を拒絶した。
「係長、もう限界です」
サニアが、真っ白な顔で俺の横に立った。彼女の手にあるペンは、あまりの筆圧に耐えかねて、中央から無惨に折れている。
「財務省からは予算凍結の通達が、法務局からは憲章違反の告発状が届いています。私たちがどれだけ書類の上で平和を捏造しても、現実の憎悪がそのスピードを追い越してしまった。……もう、隠しきれません。明日の朝刊が出る頃には、世界中が知ることになります。私たちが守ってきた平和が、ただの『死体隠し』だったことを」
カイルは、ただ黙って床に散らばった報告書の一枚を拾い上げた。そこには、昨夜「事故死」として処理された少年の名前が、事務的なインクで上書きされていた。
俺は、自分の右手に握られたペンを見つめた。
この一本で、俺は魔王亡きあとの世界を操ってきた。予算を配分し、規約を作り、不都合な真実を闇に葬ってきた。だが今、そのペンは鉛のように重く、指先に力が入らない。
俺はゆっくりと、山積みの書類の一番上にある「最終報告書案」に目を落とした。
そこには、昨夜の惨劇を『大規模な避難訓練中の不備』として処理する、最悪の嘘が書かれていた。
「……ふっ」
乾いた笑いが、俺の喉から漏れた。
「係長?」
俺は椅子を蹴り飛ばすように立ち上がり、その報告書を、自分の手で真っ二つに引き裂いた。紙が裂ける鋭い音が、静まり返った執務室に銃声のように響く。
「もういい。ミラ、全システムの更新を停止しろ。サニア、虚偽のプレスリリースもすべて破棄だ。カイル、お前が拾ったその紙は、もうゴミ箱に入れなくていい」
俺は、窓の外を見た。
夜明け前の薄暗い王都。スラムのあちこちで灯る怒りの火影は、もはや事務屋のペンで消せるような小さな火種ではない。
「これはもう、“案件”じゃない」
俺の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
これまで俺たちが扱ってきたのは、予算や規約、あるいは「管理可能な不備」という名の、机の上の問題だった。だが、今目の前にあるのは、数千年の歴史の中で積み重なり、平和という名の蓋で無理やり抑えつけられてきた、人間の本能そのものの爆発だ。
「俺たちは、世界を管理しているつもりで、ただ傷口を絆創膏で隠し続けていただけだ。膿が溜まり、肉が腐り、ついにその絆創膏を突き破って溢れ出した。……事務屋が、帳簿の上でこねくり回せる段階は、もう終わったんだよ」
部屋の隅で、ずっと壁にもたれかかっていた勇者が、ゆっくりと身体を起こした。その瞳には、かつて魔王と対峙した時と同じ、静かで冷徹な闘志が宿っていた。
「……やっと気づいたか、事務屋。お前のペンのインクが切れるのを、俺はずっと待ってたぜ」
「勇者、笑うなよ。俺はまだ、諦めたわけじゃない」
俺はデスクの引き出しから、古びた、しかし重厚な「非常事態用印章」を取り出した。それは雑務課が設立された当初、一度も使われることが想定されていなかった、文字通り「管理不能」に陥った時のみに使用される最後の手段だ。
「平和を維持する仕事は、ここで終わりだ。これからは、壊れゆく世界をどう『軟着陸』させるかという、救いのない後始末が始まる」
俺は、裂いた書類を窓から夜風に投げ捨てた。
白い紙片が、雪のように王都の空に舞い散る。




