第108話:初めての殺し合い
深夜の静寂を切り裂いたのは、アラート音ではなく、執務室の窓を震わせる遠い爆鳴だった。
ミラが即座に、スラム西区――人族の自警団と獣人の「牙の同盟」が対峙する境界線の映像をメインモニターに投影する。
そこにあったのは、もはや「小競り合い」と呼べるレベルの光景ではなかった。
松明の火が夜闇を赤く染め、急造のバリケードを挟んで、農具を改造した槍と、軍から流出した魔導短剣が火花を散らしている。
「報告します。午前二時十五分、水利権を巡る口論から武力衝突に発展。双方、自治組織の主力級が投入されています。……現在、戦線が拡大。死傷者が発生しています」
ミラの淡々とした報告の直後、画面越しに一人の男が倒れるのが見えた。人族の自警団員だ。彼の胸を、獣人の戦士が放った矢が深く貫いている。
それが合図だったかのように、怒号は地響きへと変わり、双方が「殺すため」に走り出した。
「係長、すぐに警備隊を! このままではスラム全体が燃えてしまいます!」
サニアが悲鳴に近い声を上げる。だが、俺は動かなかった。ペンを握る指先が、氷のように冷たい。
「……警備隊は動かせない。今、王都の正規軍を投入すれば、それは『国家による虐殺』か『内戦の開始』として記録される。そうなれば、俺たちが積み上げてきた平和という名の虚飾は一瞬で崩壊する」
「でも、あそこで人が死んでるんですよ! 今この瞬間も!」
カイルが俺のデスクを叩いた。彼の手は震え、その瞳には溢れんばかりの涙が溜まっている。
「分かっている。だから、これを『処理』するんだ」
俺は震える手で、真っ白な報告書のタイトル欄にペンを走らせた。
分類:暴動(大規模騒擾)
俺が書き込んだのは、「戦争」でも「紛争」でもなく、**「暴動」**という二文字だった。
「ミラ、記録を書き換えろ。これは資源配分の遅れに端を発した、一時的な集団暴動だ。死者は『不運な雑踏事故および火災による窒息』として処理する。殺し合いじゃない。ただの、管理不備による混乱だ」
「了解。各報道機関への通信をジャックし、公式見解を送信。スラムの該当区域の魔力ログを『事故』の波形に修正します」
ミラの指先が、事実を冷酷に削り取っていく。
画面の中では、倒れた仲間の遺体を踏み越えて、人々がなおも憎しみをぶつけ合っている。だが、俺のデスクの上にある書類の中では、彼らの死は「統計上の事故」へと変換されていく。
「係長、こんなの……。昨日まで名前のあった人たちが、ただの『事故の件数』にされてしまうなんて」
カイルの声は、絶望に染まっていた。
俺は彼を見ることができなかった。ただ、滲みそうになるインクを抑え、承認の印を力強く押し付けた。
「カイル、これが事務屋の戦場だ。あそこで流れている血を、俺はこの紙の上で透明な水に変えなきゃならない。そうしなければ、明日には王都中の人間が武器を持って外に飛び出すことになる。……俺たちは、真実を殺して平和を守るんだ」
部屋の隅で、聖剣の柄を握りしめていた勇者が、低く唸るような声を漏らした。
「……初めての殺し合いか。魔王軍との戦いじゃ、死ぬのはいつも『誰かのため』だった。でも、あいつらは『自分たちの正義』のために、隣人を刺した。……事務屋、お前のペンじゃ、あの返り血は拭いきれねえぞ」
「拭えなくても、隠し通してやるよ。それが世界最強の部署の業務だ」
夜が明ける頃、衝突は沈静化した。
スラムの路地裏には、冷たくなった「事故死者」たちが並び、生き残った者たちは、互いに癒えない傷と消えない憎しみを抱えたまま、自分たちの「箱」へと戻っていった。
翌朝の新聞には、こう記された。
『スラムで小規模な暴動発生。雑務課の迅速な対応により、混乱は最小限に抑制』
紛争発生件数:0。
帳簿の上では、今日も世界は完璧に平和だった。
俺は卓上灯を消し、深く椅子に背を預けた。
指先には、まだあの冷たいペンの感触が残っている。
「勇者にはなれなかったけど」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉が、空っぽの執務室に虚しく響く。
「まあ、世界最強の部署にはなったらしい」




