第105話:勇者の違和感
執務室の窓際、月明かりを浴びて立つ勇者の背中は、かつて魔王軍の軍勢を一人で押し留めた時よりも、どこか小さく、そして重苦しく見えた。
トウマが報告した「種族別武器流通」のリストがモニターに静かに流れる中、勇者は一度もこちらを振り返らず、夜の王都を見下ろしたまま口を開いた。
「なあ、事務屋。俺は今まで、数えきれないほどの戦場を渡ってきた。魔王の軍勢がどこにいて、誰が俺の命を狙っているか、嫌っていうほど肌で感じてきたんだ」
勇者の手が、無意識に聖剣の柄にかかる。だが、その剣が引き抜かれる気配はない。
「でもな、今は違う。敵が見えないんだ」
その声は、かつての英雄の自信に満ちた響きではなく、深い霧の中を彷徨う迷子のようだった。
「魔王城に乗り込んだ時は、不気味な魔力や殺気がそこら中に満ちていた。でも、今のこの街に漂っているのは、もっと得体の知れない何かだ。すれ違う奴らの瞳の奥に、言葉には出さない鋭い刃が隠されているのが分かる。……敵の姿は見えない。でも、確実に増えてるんだ。かつての魔王軍よりもずっと、たちが悪い連中がな」
俺はペンを置き、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
勇者が感じているのは、直感という名の生存本能だ。俺たちが書類や数字で「平和」を定義しようとしている間に、彼は「気配」でその崩壊を感じ取っている。
「見えない敵」の正体
勇者の言葉を裏付けるように、ミラの解析データが更新された。
物理的な敵: 存在しない。軍隊の移動も、テロ組織の結成も、公式な記録には一切ない。
潜在的な敵: スラムの各区画、一般市民の家庭、そして隣人を憎み始めたすべての人々。
武器の形: 剣や魔法だけでなく、「隣人は敵だ」という確信そのものが、この平和を切り裂く武器へと変わっている。
「事務屋、お前の帳簿には『悪意』っていう項目はあるのか?」
勇者がようやくこちらを向き、鋭い視線を投げかけてきた。
「……残念ながら、感情を代入するセルは用意されていない。だが、トウマが見つけた武器の流通経路を追えば、その悪意がどこに向かおうとしているかは予測できる」
「予測してどうする。また新しい『規制』を作って、連中の首を絞めるのか? それで奴らの心が晴れると思うか?」
勇者の問いは、俺の胸の奥にある「事務屋の限界」を正確に突いていた。
俺たちが制度を固め、管理を強めれば強めるほど、人々の内側にある熱量は出口を失い、より深く、より鋭く研ぎ澄まされていく。
「勇者にはなれなかったが、俺は俺のやり方でこの『見えない敵』を管理してやる。彼らが武器を手に取ったとしても、それを振るう理由を事務的に消し去ってやるんだ」
「……お前らしいな。でも、気をつけろよ。そのペン一本で抑えきれるほど、今の世界の憎しみは軽くねえぞ」
勇者はそれだけ言うと、影に溶けるように執務室を去っていった。
残されたのは、静まり返った部屋と、点滅を繰り返すモニターの光だけだった。
俺は再びペンを握り、白紙の書類に「非常事態宣言の草案」を書き始めた。
平和という名の薄氷。その下で、見えない敵が着実に、かつての魔王以上の脅威となって膨れ上がっている。




