第3話:偽りの滞在記録
英国の冷たい曇天の空が重く低く垂れ込めるなか、ハイドロパシック・ホテルの地下室には、しんしんとした冬の静寂と、ガリ版刷りの機械が吐き出す無機質なインクの臭気が支配していた。
「ですからニール夫人! これはやはり、正気の沙汰ではありません! ロンドン中の新聞や、あなたの失踪捜索者、一万五千人の志願者たちが、あなたの行方を探して大騒ぎをしているのですよ! 一刻も早く正体を明かすべきです!」
地下の薄暗いランプの光に照らされて、ホテルの若き従業員――Mr.エドワードが、顔を真っ赤にして狼狽えながら、必死に声を張り上げていた。
それは、ホテルの記帳や私の差し出した小切手の筆跡、そして手ぶらで来た私が新しく仕立屋からドレスを買い付けさせた手続きのバグから、私の正体を逆探知してしまった実直な若者の、必死の防壁であった。
彼は私の仕掛けた失踪劇という名の完全犯罪を恐れ、あるいは正義感のノイズを放って、この地下室に秘められた真実を国へ報告しようと焦っていた。
だが、私は、そのMr.エドワードの必死の懇願にニヤリと冷たい微笑を応じるように、コニャックを数滴落とした熱いダージリンティーのカップに指先を添えていた。
ポアロやトミーとタペンズ、独立前夜のミス マープルたちの明晰な知性を原稿用紙へとスキャンし続けてきた私の指先は、今夜もいつも通り、万年筆の黒いインクの染みによって暗がりのなかで黒く汚れていた。
琥珀色の美しい液体から立ち上る、ブランデーの芳醇な香りと熱いダージリンの湯気の向こう側で、私の脳内システムは、すでに一つの美しい真実の算法へとアクセスを完了していた。
「Mr.エドワード。
その正義感と、私の小切手の筆跡という鋭い観察眼を使って、私の正体を看破してみせた配線図は、実に美しい手品だ。……だがね、あなたが、変えようとしているこの物語の中身を剥ぎ取れば、実にあっけない、引き算の数理に過ぎないのよ」
私は万年筆の先を静かに動かし、彼がこの地下室で刷り上げさせられている大量の原稿用紙へと視線を走らせた。
「あなたは、上のラウンジや食堂に集う、あの訝しげな宿泊客たちの哀れな視線が視えていないのかしら。
彼らは毎日毎日、ロンドンの新聞が書き殴る“クリスティ夫人、冷たい池の底で殺害か”というセンセーショナルな報道を読み耽り、勝手に私の記述した大嘘の物語に心理誘導されている」
私は万年筆を握り直し、脳内でその心理の算法を組み立て、声を立てて笑った。
「彼らは新聞の私の写真と、仕立屋から買い付けた豪奢なドレスをまとって優雅に微笑む私の顔を見比べ、勝手に脳内でシステムエラーを起こしている。
ああ、世の中には、あの悲劇のクリスティ夫人に顔が酷似している、テレサ・ニールという名の別の富裕なニール夫人がいるのだな、とね。
人間の先入観という名の目くらましは、それほどまでに強固なのよ。
あなたの、ホテルの総支配人たちだって、私が切った高額な小切手の数字のために、すべてを分かっていて全力で見て見ぬふりをして隠蔽を手伝ってくれているというのにね」
「だからこそ、口封じのために君をこのホテルの地下へと監禁し、その帰りを待つ身内が異変を察知して警察へ駆け込むことまでを計算に入れて、この密室劇を仕組んだの」
「君がこの地下の暗闇のなかで、夜な夜な私に強制されて刷り上げているこの文字の並び。これこそが、私が国中の警察の目を完璧に煙に巻くための、偽りの滞在記録という名の完璧なる創作なのだよ」
「あなたの肉体など、スコットランドヤードがどれほど探そうとも、最初から一文字も記述されてはいない。
彼らは、私が遺した『 日記 』の大嘘のなかに完璧に心理誘導され、
私を誘拐した犯人として、私の夫アーチボルドを殺人犯の絶望へと追い詰めていくのだからね」
人間の先入観の恐怖と、新聞報道の文字の迷宮、そしてハローゲイトのホテルの商業的な隠蔽を極限まで突いた、完璧なプロットね。
ああ、なんと楽しい仕事なのだろう。
今年発表した『アクロイド殺し』の「信頼できない語り手」の数理で世界中を欺いてみせたこの私が、今度はこの現実の歪んだ世界を舞台にして、新しい物語りをはじめようとしている。
夫の不倫の数字を逆に楽しげに暴き立て、彼を社会的に完膚なきまでにパージするための、完璧に計算され尽くした十一日間。
「これで、あの人の人生のタイムラインは、国の最高法秩序によって、完全にパージされる、アーチボルド。
この十一日間の皆既日食の闇のなかで、あの人は、すべてを失うのだ」
私は、頭の中を駆けめぐる思考の渦を、一旦、休めた。
新調した、アフタヌーンドレスの裾を直して、崩れ落ちるMr.エドワードを冷静に見つめた。
そして、自分自身が、はじめたゲームのスコアを、冷徹に判断しはじめていた。
【ミス マープルによる、ここまでの解説】
「まあまあ、皆様。お茶でも飲みながら、少しだけ私の昔話(セント・メアリ・ミード村の出来事)に耳を傾けてくださらないかしら」
「人間の考えることなんて、イギリスの小さな田舎町でも、このハローゲイトの高級ホテルでも、実は100%まったく同じ算法で動いているものなのですよ」
「最愛の夫に裏切られたアガサが、万年筆の黒いインクで指先を染め、コニャックを落とした熱いダージリンティーの琥珀色の湯気の向こう側で仕掛けた、あの『十一日間の皆既日食の闇』。……あれはただの陰惨な復讐劇などではございません」
「彼女は、自分自身の最高傑作である『アクロイド殺し』の信頼できない語り手の数理を現実へと上書きし、新しい物語りをはじめようとしているその計画の段階から、楽しくて楽しくて仕方がなかったのですね」
「手ぶらで来られた彼女が、ホテルの小切手の手続きを使って豪奢なドレスを現地調達する上流階級の生活ファクト。そして、ロンドンの新聞の失踪報道に踊らされている宿泊客たちが、先入観のバグによって目の前のアガサを『テレサ・ニールという名のそっくりな別人』だと勝手に訝しみ、勝手に納得していく心理の死角」
「支配人たちも、高額な滞在費のためにそれを全力で見ぬふりをして隠蔽しているのですから、人間の強欲の手続きというのは、実に哀れで、そして美しいものですね」
「たった一人、その秘密の帳簿のバグに気づき、正義感のノイズから正体を看破して部屋の扉を叩いた若き従業員の、Mr.エドワード。彼を口封じのために地下室へと監禁し、夜な夜な偽りの滞在記録を印刷させて国中を煙に巻いていく第三話の最果て」
「探偵なきその空間で、私と国の警察の知性をはらんだ意思と欺瞞が、ロンドンの冷たい曇天の霧が蠢くホテルのなかで、静かに交差し、衝突をはじめていた――」
「まあ、私の村にいた仕立屋の娘の嘘と、このミステリの女王の知略は、根底にある人間の算法として一寸の狂いもなく同じなのです」




