第4話:アガサの目論み
一九二六年十二月十四日。
ハローゲイトのハイドロパシック・ホテルを震撼させた「アガサ・クリスティ失踪事件」の十一日間の皆既日食は、あまりにもあっけない結末を迎えていた。
小切手がロンドンの銀行で決済される物理的なタイムラインの露見、金融の手続き、そして新聞の巨額の懸賞金にハッキングされたホテルの楽団員の通報によって、警察が一斉にこの高級ホテルへと突入してきたのだ。
「ああ、アガサ! 無事だったのか!」
駆け込んできた夫のアーチボルドが、押し寄せる新聞記者たちのフラッシュの光のノイズを背負いながら、顔を真っ赤にして狼狽え、偽りの安堵の声を張り上げた。
だが、ホテルの一室で、新調したアフタヌーンドレスの裾を静かに直した私は、万年筆の黒いインクの染みがついた指先をダージリンティーのカップへと添え、ふっと不敵な微笑みを溢れさせてみせた。
警察や記者が、私の遺した「日記」の大嘘に振り回され、目を白黒させて私に詰め寄ってくる。
「クリスティ夫人、 一体この十一日間、どこで何をされていたのですか、誘拐ですか、それとも……!」
そんな騒音のど真ん中で、静かに最後のスピーチを執行した。
「皆様……。私は何一つ、記憶がないのです」
その一言が私の唇から放たれた瞬間、その場の空気は一瞬にして凍りつき、夫のアーチボルドの瞳孔が一発で散大した。
記憶がない――。
それが、世界中を欺き通した私の新しい物語りの、真の幕引きであった。
私が仕掛けたこの十一日間の空白劇。
ただの一般人が誰にも何も告げずに家を出て、偽名を使ってお忍びでホテルに泊まるという自発的な失踪が、国法の手続きの上で、最初からいかなる罪にもならない完全なる合法であることを、私は考えている段階から百パーセント完璧に熟知していた。
お上は私を一文字の罪で裁くことも、コート(法廷)へパージすることもできはしない。
だが、この「記憶がない」という完璧なる大嘘の前に、世間と国法の手続きは、夫のアーチボルドを『最愛の妻を記憶喪失にまで追い詰めた、若い愛人との秘密の帳簿を持つ最悪の悪漢』として、その社会的な信用と資産のすべてを完膚なきまでに、打ちのめしていくに違いない。
事実、ホテルの門前は、生還したミステリの女王の一文字を求めて、国中の新聞記者たちが狂ったように押し寄せる凄まじい「取材合戦の嵐」にさらされた。
その狂乱の取材合戦の火の粉は、私の狙い通り、夫の不倫相手であるナンシー・ネールの元へも、降り注いだ。
アガサに偽名として名前を騙られ、完全犯罪のガソリンにされた浮気相手の女。
彼女のプライバシーや名誉はお上の新聞によって完膚なきまでに暴露され、彼女は一瞬にして「ミステリの女王の家庭を壊し、精神崩壊にまで追い込んだ希代の悪女」として、英国中から完全に晒された。
この失踪劇から二年後の一九二八年。
私はアーチボルドとの離婚の手続きを完了させた。
大義名分をすべて失い、社会的に泥塗れになったアーチボルドと浮気相手のナンシーは、後にひっそりと再婚の手続きへ回されたようだけれど、彼らが手に入れたのは、かつて夢見た美しい愛などではない。
私の仕掛けた「十一日間の皆既日食の呪い」によって、一生消えない醜聞と世間の冷たい視線を背負い続けながら、日陰でひっそりと生きていくという、地獄のような過酷な現実の労働インフラになったわけだ。
私は一文字の傷も負うことなく、一人の清々しきミステリーの女王として、文壇の天元へと復帰する。
すべてを見抜いたミス マープルのような静かななる知性の視線を背後に感じながら、スタイルズ荘への帰路の車へと静かに乗り込んだ。
新しい物語りをはじめようとしている私の邪魔をすることなど、誰にもできはしない。
最高に知的で楽しいリベンジの重量など、逆立ちしても誰にも理解されないだろう。
霧の街、ロンドンの霧の正体は、工場地帯から出る煙――ただの物理的な煙に過ぎない。
だが、すべての仮面が剥がれ落ちたこの最高の朝、私の部屋の窓の向こうには、英国らしい冷たい曇天の空が、重く、どこまでも低く広がろうとしていた。
偉大なる作家 アガサ・クリスティ の11日間の空白の時間は、ミステリーの女王に相応しい、完ぺきなる、リベンジ劇の記録なのだった。
離婚後、アガサ・クリスティ氏は、彼女の脳内システムは一切のノイズから解放され、
『オリエント急行の殺人』や『そして誰もいなくなった』といった、世界のミステリ史の中でも、真の傑作・大金字塔を続々と産み落とす最高峰のエネルギーへとアジャストしていきます。
アガサにとっての離婚は、損切りだったのかもしれません。
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本作を脱稿するにあたり、
エルキュール・ポアロ、トミーとタペンズ、そしてまだ見ぬミス マープルという不朽名作と、理知を産み落とし、本格推理小説の歴史そのものを塗り替え続けた真の文壇の怪物、アガサ・クリスティ(AGATHA CHRISTIE)へ、満開の敬意と感謝の祈りを捧げます。
一九二六年に彼女が遺した「空白の十一日間」という実在の歴史的事実。
彼女が生涯にわたって「なにも云わぬ」まま隠蔽し続けたその不気味な空白の深淵に、現代最高峰の心理サスペンス『ゴーン・ガール』の冷徹な愛憎の算法を同期させた時、私の万年筆からは、これ以上ないほどソリッドで誇り高い女の執念の算譜が溢れ出しました。
タバコを一切吸わなかった彼女が、冬のスタイルズ荘の寒さを温めるためにコニャックを落とした熱いダージリンティーをすすり、万年筆の黒いインクで指先を染めながら、この完全犯罪の配線図を「考えている段階から楽しくて仕方がなかったはずだ」という作家としての無上の愉悦。
自らの意思による失踪が国法の手続きの上で最初からいかなる罪にもならない事を熟知した上で、凄まじい取材合戦の嵐を利用して夫と浮気相手ナンシーの人生だけを社会的に完膚なきまでにパージ(抹殺)し、二年後の離婚へとチェックメイトを執行したあの冷徹な算譜。
私を未知なる文芸の天元へと導いてくれたミステリーの女王へ。
最大級の賛辞を込めて。合掌。
著者・東曌




