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『Dear Diary 』“GONE GIRL, AGATHA CHRISTIE: The 11-Day Eclipse” 『アガサ・クリスティ空白の11日間』  作者: 東曌


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第2話:テレサ・ニール(Teresa Neele) 改訂版

サリー州のスタイルズ荘から車を走らせ、無人の愛車を凍てつく池の淵へと不自然に乗り捨ててから、わずか数時間。


英国の冷たい曇天の空が重く低く垂れ込めるなか、私は偽名を使って、ハローゲイトにある高級スパホテル――ハイドロパシック・ホテルの豪奢な一室へと最速で滑り込んでいた。


宿帳の最前線に私が記述した偽名は、テレサ・ニール(Teresa Neele)。


アーチボルド、私の愛した夫。お前が裏で囲っている、あの若い愛人の苗字をあえて騙ってこの場所にチェックインした私の意図が、お前には解るかしら。

自宅から手ぶらで脱出してきた私は、着替えのトランクなど何一つ持っていなかった。


だからこそ、ホテルの帳箱の前で、私はジャラジャラとした現金などという下俗なものは一文字も記述せず、万年筆の黒いインクを走らせて一枚の銀行小切手へと「テレサ・ニール」の署名を刻み、ホテルのお抱えの仕立屋から豪奢なドレスや着替えのすべてをその場で買い付けさせる滞在の手続きを、スマートに済ませてみせた。


数日後、国中の警察が一万五千人のアガサの失踪捜索志願者たちとともに、私の遺した「 日記 」の大嘘に振り回され、目を白黒させて大騒ぎをしている光景を思い浮かべるだけで、唇からは不敵な微笑みが溢れ出して止らない。


私は、新しく買い付けさせたばかりの仕立ての良い衣服に身を包み、ホテルの部屋の暖炉でパチパチと音を立てて爆ぜる薪の火を見つめながら、コニャックを数滴落とした熱いダージリンティーのカップに指先を添えていた。


ポアロやトミーとタペンズ、そしてまだ見ぬミス マープルたちの明晰な知性を原稿用紙へとスキャンし続けてきた私の指先は、今夜もいつも通り、万年筆の黒いインクの染みによって暗がりのなかで黒く汚れていた。


琥珀色の美しい液体から立ち上る、ブランデーの芳醇な香りと熱いダージリンの湯気の向こう側で、私は万年筆を握り直し、夫アーチボルドの「秘密の帳簿」をデスクの上に広げた。


それは彼が愛人ナンシーとの間に作っていた、私の資産と信用のすべてを隠蔽するための、冷酷極まる裏切りの二重管理。


私はその秘密の帳簿の数字のつじつまを、万年筆の黒いインクで一つずつ丁寧に解き明かしていく。


ああ、なんと楽しい仕事なのだろう。 


今年発表した『アクロイド殺し』の「信頼できない語り手」の数理で世界中を欺いてみせたこの私が、今度はこのハイドロパシック・ホテルの記帳を利用して、新しい物語りをはじめようとしているのだ。


夫の不倫の数字を逆に楽しげに暴き立て、彼を縛り首の絶望へと追い詰めるための、完璧に計算され尽くした十一日間の完全犯罪。


「これでお前の人生のタイムラインは、国の最高法秩序によって、完全にパージされるのさ、アーチボルド。この十一日間の皆既日食の闇のなかで、お前はすべてを失うのだ」


私は万年筆を握り直し、声を立てて笑った。


だが――。

その刹那、ホテルの部屋の木扉が静かにノックされ、一人の若き誠実な従業員――エドワードが、冷たい冬の風とともに足を踏み入れてきた。


「失礼いたします、ニール夫人」

若き従業員は、生真面目な顔を小さく歪め、私がデスクの上に広げている秘密の帳簿、そして私の指先にこびりついた不気味な黒いインクの染みを、じっと凝視した。

彼は、私の正体、そして私がこのホテルで行っている不法な二重記帳の数字のバグに、その実直な瞳のなかで気づきかけていた。

「ニール夫人。失礼ながら、その指先のインクの染み、そして先ほどあなたが手ぶらで来られてすぐ、衣服を揃えるためにホテルの帳箱へ差し出された、その小切手の署名の筆跡……。あなたはロンドンの新聞で見かける、あのアガサ・クリスティ夫人ではありませんか。なぜ、愛人の名を騙り、旦那様の裏のデータをここで一人で解体されているのです……」

若き従業員が放った、衣服の調達と小切手の筆跡という名の鋭すぎる一撃。

その瞬間、私の完璧な微笑みがふっと凍りつき、瞳の奥に初めて微細な動揺の影が走り、瞳孔が一瞬だけ散大した。


「Mr.エドワード。

君は、いつも通りの夕刻の時刻に帰してしまっては、国へこの秘密の帳簿のデータをすべて持ち出されてしまうと、私が焦るとでも思ったのかい」

私はダージリンティーのカップを静かに置き、万年筆 の先を彼へと向けた。


君が私の復讐の配線図に気づき、国へ密かに内通しようとしたその瞬間、君の役割は決まった。

君は、私が仕掛けるべき「新しい物語り」のなかで、口封じのためにこのホテルの地下の暗闇へと監禁されることになる。

そして、夜な夜な私が国中の警察の目を煙に巻くための「偽りの滞在記録」を強制的に印刷させられる役割を担うのだ。


探偵なきこの空間で、私と国の警察の知性をはらんだ意思と欺瞞が、ロンドンの冷たい曇天の霧が蠢くホテルのなかで、静かに交差し、衝突をはじめていた。

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