第1話 : Darjeeling tea(ダージリンティー)
【主要登場人物紹介】
• 私
英国の文壇を『アクロイド殺し』の数理でハッキングしている、三十六歳の天才女流作家。
夫アーチボルドの冷酷な裏切りに、心は疲弊していた。自らの執筆の技法のすべてをもとにして、完璧なる「ゴーン・ガール型復讐劇」を創造する。考えている段階から楽しんでいる恐るべき知性の持ち主。
• アーチボルド・クリスティ
アガサの夫であり、かつて大空を駆けた高名な飛行士。
裏で若い愛人ナンシーとの間に秘密の物語を作りはじめていた。
妻の資産と信用のすべてを隠蔽しようとしていた男。
アガサが遺した大嘘の日記帳(完璧なる創作)の前に、一発で「妻を呪い殺した最悪の殺人犯」として国の警察に包囲され、脳内システムをパンクさせる哀れな調査対象。
• ホテルスタッフ
アガサが愛人の名(偽名)を使って潜伏する高級スパホテル(ハイドロパシック・ホテル)の、若き誠実な従業員。
アガサの正体、そして彼女の持ち込んだ不法な二重記帳の数字のバグに気づいた直後、彼女の計画を補助する。
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本作の航路を立ち上げるにあたり、エルキュール・ポアロ、トミーとタペンズ、そしてまだ見ぬミス マープルという不朽の理知を産み落とし、本格推理小説の歴史そのものを塗り替え続けた、文壇の真の怪物、アガサ・クリスティ(AGATHA CHRISTIE)へ、最大級の賛辞と感謝の祈りを捧げます。
一九二六年に彼女が遺した「空白の十一日間」という実在の歴史的事実。
彼女が生涯にわたって「もの云わぬ」まま隠蔽し続けたその不気味な空白11日間に、愛憎の算法を同期させた時、私の頭からは、誇り高い人間の執念の算譜が溢れ出しました。
タバコを一切吸わなかった彼女が、冬のスタイルズ荘の寒さを温めるためにコニャックを落とした熱いダージリンティーをすすり、万年筆の黒いインクで指先を染めながら、この完全犯罪の配線図を「考えている段階から楽しくて仕方がなかったはずだ」という作家としての無上の愉悦。
機械のキーを叩くタイプライターではなく、自らのペンによる手書きという執筆ファクトにどこまでも誠実に、一分の隙もない完璧な強度の物語をここに記述いたします。
私を未知なる文芸の天元へと導いてくれた、ミステリーの女王様へ、心からの敬意を込めて。合掌。
一九二六年十二月。
サリー州にそびえ立つスタイルズ荘の書斎は、しんしんとした冬の静寂に包まれていた。
私は、暖炉の奥でパチパチと音を立てて爆ぜる薪の火を見つめながら、コニャックを数滴落とした熱いダージリンティーのカップに指先を添えていた。
ポアロやトミーとタペンズ、そしてまだ見ぬミス マープルたちの明晰な知性を原稿用紙へと書き記し続けてきた。
琥珀色の美しい液体から立ち上る、ブランデーの芳醇な香りと熱いダージリンの湯気の向こう側で、私は万年筆を握り直し、デスクの上の古びた一冊の日記帳へと、冷徹にその黒いインクを走らせ始めた。
『親愛なる日記帳へ。私の夫アーチボルドの裏切りは、もう耐えられる限界を超えています。
彼は若い愛人ナンシーとの間に秘密の帳簿を作り、私の資産と信用のすべてを隠蔽しようとしていた。
そればかりか、彼は私という存在をこのスタイルズ荘の暗闇のなかで、物理的に抹殺しようと企んでいるのです。
私は恐ろしい。
近いうちに、私はこの家から忽然と姿を消されてしまうかもしれない……』
インクの乾き具合にいたるまで、夫から受けてきたとされる架空の精神的虐待の数理が、一寸の狂いもなく、克明に書き殴られていく。
だが――。
その血塗られた被害者の文字列を記述している私の唇からは、どうしても不敵な微笑みが溢れ出してしまった。
ああ、なんと楽しい仕事なのだろう。
今年発表した『アクロイド殺し』の「信頼できない語り手」の数理で世界中をハッキングしてみせたこの私が、今度はこの現実の歪んだ世界を舞台にして、新しい物語りをはじめようとしているのだ。
これから私が記述するのは、正真の、誰一人生きては出られぬ「十一日間の空白」の算譜である。
短すぎれば国の警察を動かせず、長すぎれば私の存在そのものがこの国から風化してしまう。
国の最高法秩序と、捜索隊の志願者たちを完璧に翻弄し、夫を縛り首の絶望へと追い詰めるための、完璧に計算され尽くした十一日間の完全犯罪。
私はただ、愛車を泥深い池の淵へと不自然に乗り捨てる、それだけでいい。
主を失った無人の車と、日記帳。
それを見たスコットランドヤードの無能な刑事どもは、ミステリの女王の身に恐ろしい不可能犯罪が起きたのだと、勝手に脳内システムをパンクさせて大騒ぎを始め、アーチボルドを最悪の殺人犯として社会的に縛り首へと叩き落とすに違いない。
放置された愛車という記号だけで国の警察が勝手に不気味な物語を妄想し、目を白黒させて右往左往する光景が、今からハッキリと視えて脳内が歓喜で脈打っている。
私はティーカップを置き、コートをまとい、門前に待機させてあった私の車へと静かに乗り込んだ。
総てのプロットはすべて私の頭の中に、そして、この日記帳の秘密のなかに、整っていた。
新しい物語りをはじめようとしている私の邪魔をすることなど、誰にもできはしない。
この静寂の夜に潜む女の、最高に知的で楽しい復讐の重量など、誰にも理解できないだろう。
霧の街、ロンドンの霧の正体は、工場地帯から出る煙――ただの物理的な煙に過ぎない。
だが、自らの存在をこの国から一度完全に消去して旅立つ、この最高の夜、私の部屋の窓の向こうには、英国らしい冷たい曇天の空が、重く、低く広がろうとしていた。
それはまるで、これから始まる私(AGATHA)の十一日間の空白を、誰の目からも完璧に隠蔽しはじめている様だった。




