第56話 卒業検定の朝と、緊張のスタートライン
秋晴れの澄み切った青空が広がる朝、僕たちは平野の爽やかな風が吹き抜ける指定自動車学校の大きな門をくぐった。いよいよ今日が、僕たちの普通二輪免許における集大成、「卒業検定」の本番だ。正門をくぐり抜けるアスファルトの匂いや、遠くに見える背振山脈の稜線が、今日はやけに鮮明に目に映る。
待合ロビーには、同じく検定を受ける受検生たちが集まっていた。普通自動二輪のほかにも、大型二輪や普通車の受検生が混ざり合い、独特のピリッとした緊張感がロビー全体をすっぽりと包み込んでいた。誰もが自分の世界に入り込み、手元の教習手帳やコース図を真剣な目でめくっている。僕と楓は、受付で渡されたオレンジ色のビブスをそれぞれのシャツの上から羽織り、番号が書かれた席に並んで腰を下ろした。
「……ねえ、葵。なんか、心臓が口から飛び出しそうなんだけど」
楓は自分の胸元を軽く押さえながら、青白い顔で苦笑いを浮かべた。普段のバイトで見せる快活さはどこへやら、手のひらを僕に見せると、緊張のあまりほんのりと汗で濡れていた。
「僕もだよ。昨日の夜、古屋のなかで冷えたサイダーを飲みながら、頭を抱えてコース図を完璧にシミュレーションしたはずなのにさ……今、急に頭の中が真っ白になって、一本橋の目標タイムが何秒だっけって不安になってきた……」
深呼吸をしようと大きく息を吸い込むが、胸の奥がつかえたように浅くなってしまう。
原付の免許を取ったときとは比べ物にならないほどの重圧。それは、この数ヶ月間、アルバイトを掛け持ちして教習代を稼ぎ、あの重いCB400SFのクラッチと汗だくになって格闘してきた時間――そのすべてがこの一回にかかっているからだった。厳しい日差しの中で流した汗も、ギアチェンジに戸惑ってエンストを繰り返し、指導員にため息をつかれた悔しさも、すべてはこの瞬間のためにあったんだ。ふと脳裏に浮かぶのは、あの古びた古屋のガレージと、二台の小さな愛車の姿だった。あそこで積み重ねてきた時間が、今の僕たちを支えているはずなのに、緊張の波はそれを飲み込んでしまいそうになる。
やがて、スピーカーから事務的なアナウンスが響き渡った。
「――それでは、普通二輪受検生の皆さんは、指定されたコース集合場所へ移動してください」
そのアナウンスを合図に、待合ロビーの空気が一変した。受検生たちが一斉に立ち上がり、それぞれの靴音を鳴らしながら外のコースへと向かう。僕と楓も互いに顔を見合わせ、小さくうなずき合ってから席を立った。
検定員からの注意事項の説明が終わり、いよいよ順番にバイクへと割り振られていく。
コースの脇にずらりと並べられたCB400SFの群れ。その一台一台が、いつもより何倍も巨大な鉄の塊に見えてくる。太陽の光を反射するガソリンタンクや、黒々と太いマフラーの排気口が、これから始まる厳格な試験の重みを無言で物語っているようだった。
「最初に受検する方は、それぞれの車両に移動してください」
僕のゼッケン番号は前半のグループだった。
大きく息を吸い込み、自分の担当となるCB400SFのそばへと歩み寄る。教習の中で何度もまたがり、何度もエンストさせ、そして少しずつコツを掴んできた、かけがえのない相棒だ。
(大丈夫。いつも通りにやればいいんだ。まずはバイクをしっかり起こして、サイドスタンドを払って、前後左右の安全確認……!)
乗車の手順を頭の中で早口で唱えながら、車体に手をかける。
右手をブレーキにしっかりと添え、サイドスタンドを払い、ミラーと後方の安全確認を済ませてから跨る。車体が沈み込み、足裏に確かな重みが伝わる。キーを回し、イグニッションが通る音を確認してからセルボタンを押すと、重厚で低く響くお馴染みのエキゾーストノートが、静まり返ったコースに心地よく響き渡った。
ローギアに踏み込み、半クラッチの感触を足の裏で慎重に探る。
発進の合図を待つ間、視線の先には、同じように緊張した面持ちで自分のバイクに跨っている楓の姿が小さく見えた。遠くで、彼女もこちらをちらりと見て、力強く小さくうなずいた気がした。
「――〇番、葵さん。準備ができたら、発進してください」
コースサイドに立つ検定員の無線アナウンスが飛ぶ。
心臓の鼓動が耳のすぐそばで激しく鳴り響く中、僕はクラッチをゆっくりと、しかし確実につないだ。重い車体がスーッと動き出し、僕たちの長い卒業検定の幕が、いま静かに、そして力強く切って落とされた。
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