第52話 一本橋の緊張と、古屋の夜の反省会
自動車学校に通い始めてから数回目の教習。第一段階のヤマ場である「一本橋(狭路走行)」と「クランク・S字」の練習が本格的に始まっていた。
教習コースの真ん中に一本だけスッと架けられた、長さ15メートル、幅わずか30センチの鉄板の橋。地上からの高さはほんの十数センチなのに、跨っているバイクがホンダのCB400SFともなると、その細い一本の線がまるで奈落の底に架かる絶壁のようにおそろしく見えた。
「はい、では次の方、一本橋どうぞ」
指導員の指示を受け、僕は順番待ちの列からバイクを前に進めた。
ローギアに入れ、半クラッチとリアブレーキを絶妙にコントロールしながら、車体をまっすぐに橋の入り口へと合わせる。アクセルを一定に保ち、目線はしっかりと遠くの先を見る。……分かってはいるのに、いざ前輪が橋の鉄板に乗った瞬間、車体の重みと緊張でハンドルがピクッと微かに揺らいだ。
(あ、落ちる……!)
焦ってフロントブレーキを握ってしまった瞬間、車体はバランスを崩し、無情にも「ピピピピーッ」と減点ブザーがけたたましく鳴り響いた。タイムを計測するまでもなく、通過秒数すら満たせずにあえなく脱輪。
「はい、ストップ! 葵さん、手元ばかり見て前が疎かになってますよ。あと、リアブレーキをもう少し優しく踏んで、エンジンのトルクで支える感覚を思い出して」
指導員の声にヘルメットの中で渋い顔をしながら、僕はトボトボとバイクをスタート位置へと戻した。
同じコースの別の場所では、楓がクランクの角でパイロン(障害物)に苦戦していた。
ポッケの小さな車体なら体重移動だけでヒョイと曲がれたコーナーも、CB400SFのずっしりとした車体では、しっかりとしたニーグリップと半クラッチでの速度調整ができていないと、すぐにバランスを崩して足をつきそうになってしまう。
「くっ……! 重いよ、この子……!」
何度目かの挑戦で、楓はなんとかエンストせずにクランクを抜け出したものの、ヘルメットのシールド越しに見えるその顔は悔しさに満ちていた。
夕方、教習所のロビーで合流した僕たちは、お互いにぐったりと肩を落として自販機の前に座り込んだ。
「一本橋、全然ダメだった……。目標の10秒以上かけるどころか、緊張して5秒も持たずに落ちちゃったよ」
僕がスポーツドリンクの缶を開けながら嘆くと、楓も大きく息を吐き出して首を振った。
「私もクランクでパイロン擦りそうになった……。原付の感覚で乗ると、どうしても車体の重さに体が負けちゃうんだよね。中型免許って、こんなに難しいものだったんだ……」
アルバイトの肉体労働とはまた違う、神経をすり減らすような独特の疲労感が全身を包み込む。
けれど、不思議と「もうやめたい」とは思わなかった。むしろ、あの重い車体を自分の意のままに操れるようになったとき、どれほど自由な世界が広がるだろうという期待のほうが勝っていた。
夜、いつもの「古屋」に戻り、GS50とポッケのエンジンを切った静かなガレージの中で、僕たちは今日の教習の反省会を開いた。
「ねえ、葵。明日は週末だし、少しだけ原付に乗って感覚を確かめてみない? もちろん教習車とは全然違うけど、クラッチワークや目線の配り方って、意外と共通するところもある気がするんだ」
楓の提案に、僕はなるほどと頷いた。
「そうだな。原付の軽い車体でバイクの基本を体に染み込ませておけば、教習車の重さにも少しは応用できるかもな。よし、明日の夜、少しだけいつものバイパス沿いを流してみようか」
古屋の天井で揺れる裸電球の下、僕たちはそれぞれの相棒のハンドルを優しく撫でた。
一筋縄ではいかない教習所の壁。けれど、その壁を一つずつ乗り越えるたびに、僕たちは確実に新しいステージへと近づいていた。
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