第5話 最初の息吹と現実
プラグの火花を確認してから数日後の放課後。
古屋の中は、これまでにない緊張感と、どこか期待に満ちた空気に包まれていた。
「……ねえ、葵。準備はいい?」
「ああ、いつでもいいけどさ……本当にこれ、エンジンかかるのか?」
僕が不安そうに言うと、楓は少し得意げに、ガソリンを少量入えた携行缶を持ち上げた。
しかし、現実の道のりはそう甘くない。
事前の点検で、燃料タンクの底を懐中電灯で覗き込んだとき、僕たちは嫌なものを見ていた。赤茶けた、ザラザラとした錆の粉がうっすらと底に広がっていたのだ。
「うわ、これやっぱりタンクの中、錆びてるじゃん……」
「キャブのフィルターがすぐ詰まりそうだな……。佐々木モータースの親父さんに貰ったフィルター、途中に挟んどいて正解だったな」
さらに、足元を見れば、長期間の放置でペチャンコに潰れたタイヤ。空気入れでシュコシュコと空気を入れ直したものの、サイドウォールには細かいひび割れが走っている。
チェーンにいたっては、全体が赤茶色、手で引っ張ってみると「ダルンダルン」に伸びきっていた。これではスプロケットの歯飛びを起こしかねない。
「チェーン、今回は張り直す時間ないから、とりあえず遊びだけ調整して、あとで絶対交換だな……」
一筋縄ではいかない現実の壁にため息をつきつつも、僕たちはできる限りの処置を終えた。
車体にまたがり、ガソリンコックを「ON」の位置にひねる。
微かに、ツンと古いガソリンと新しいガソリンの混ざった匂いが鼻をかすめた。
「よし……じゃあ、何度か踏んでキャブにガソリンを送るよ」
「了解。一発じゃ絶対かかんないだろうけど、いくぞ……!」
僕たちはそれぞれのバイクのキックペダルに足を構えた。
心臓の音が、静かな古屋の中に響いているような気がする。チャリ通で鍛えた足に力を込め、一気にペダルを踏み下ろした。
カキィン、カキィン、と乾いた金属音が重なる。
やっぱり、予想通りエンジンはうんともすんとも言わない。
「ほら、やっぱりかかんないじゃん!」
「焦らない、何度か踏んでガソリンを送り込もう……!」
5回、10回と、汗だくになりながらキックペダルを踏み続ける。プラグがかぶらないようにアクセルを少し煽りつつ、根気強くペダルを蹴り下ろしたその時。
――プスン、パタパタタ……プすっ。
「あ、今なんか初爆があった……!」
すぐ隣で、楓のポッケからも「キュルル、ボボボッ……!」と小さな排気音が跳ね上がる。
そして、何度目かのキックで、僕のGS50のマフラーから「ポポボッ」と音を鳴らしながら、白い排気煙がフワッと吐き出された。
トトトトト……と、頼りなくも力強い、小さなエンジンの鼓動が古屋の空気を震わせる。
長年眠っていた鉄の塊が、錆やボロい足回りを抱えながらも、僕たちの手でようやく、ほんの少しだけ息を吹き返したのだ。
窓の外では、春の夕暮れの風が吹き抜け、ガソリンとオイルの混じった匂いがふわりと広がっていく。
「やった……かかったけど、このタイヤとチェーンで走るの、ちょっと怖くない?」
「だな……まずは安全に乗れるように、本格的に整備し直さないと」
僕たちは顔を見合わせ、苦笑いしながらも、いよいよ始まるバイクとの格闘に胸を高鳴らせていた。




