第48話 9月のゴールテープと、古屋の夜の祝杯
カレンダーのページが9月の終わりを指し示す頃、僕たちのスーパーでのアルバイト生活はついに最大のヤマ場を越えようとしていた。
秋の気配が深まった夜のバックヤード。ダンボールの山を片付け終え、制服から私服へと着替えた僕が従業員用の出口に向かうと、そこには愛車のヤマハ・ポッケにまたがり、ヘルメットを小脇に抱えた楓の姿があった。街灯の光に照らされた彼女の顔には、これまでの激しいシフトを走り抜いた確かな達成感が滲んでいる。
「お疲れ、葵! 私、さっき最後の給料の計算と、これまでの貯金額を合わせて電卓叩いてみたんだけどさ……!」
楓はスマホの画面を見せるように、パッと満面の笑みを浮かべた。
「目標の20万円、完全に突破したよ……! 教習所の入所金も、そのあとの教習代も、これで文句なしの一括払いができる!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
この夏、海岸線を走り、背振の険しい山道を唸らせながら登り、そして夏休みが明けてからも毎日のようにスーパーのレジ打ちや品出しで汗を流し続けた日々。時には足が棒になり、早朝から深夜までのシフトに心が折れそうになったこともあったけれど、そのすべての苦労がこの一言で報われた気がした。
「やったな、楓! 僕のほうも、電卓の計算じゃ余裕で目標額に届いてる。これで、二人揃って胸を張って教習所の門を叩けるな」
「うんっ! 本当によく頑張ったよね、私たち!」
二人はそれぞれのバイクのエンジンに火を入れ、夜風が心地よく吹き抜ける道路を並んで走り出した。向かう先はもちろん、いつもの「古屋」だ。ただの古い物置小屋だったその場所は、いつしか僕たちの汗と涙と、バイクへの情熱が染み込んだかけがえのない秘密基地になっていた。
シャッターをガラガラと開き、裸電球の黄ばんだ光を灯す。
GS50とポッケをそれぞれの定位置に並べると、エンジンの熱がゆっくりと冷めていく心地よい金属音が静まり返ったガレージに響いた。いつものようにコンクリートの床にドスンと腰を下ろし、今日は特別に、冷蔵庫のなかで冷やしておいた瓶のサイダーを二本取り出す。
「それじゃあ……9月のバイト戦線突破と、中型免許への第一歩に、乾杯!」
「乾杯!」
カチン、と心地よいガラスの音が静かな夜の空気に響いた。
冷たいサイダーが喉を通る瞬間、これまでの過酷なシフトの疲れが嘘のように溶けていく。ただの高校生のアルバイトが、自分の力で未来の切符を掴み取ったという実感が、炭酸のシュワシュワとした刺激とともに全身に広がっていった。
「ねえ、葵」
飲み口を見つめながら、楓が少しだけしみじみとした声で言った。
「こうして振り返ってみるとさ、原付の免許を取ったときって、本当に右も左もわからなかったよね。ギアチェンジもおっかなびっくりだったし、坂道でエンストして泣きそうになったりしてさ」
「あったなそんなことも。初めてこの古屋でプラグを外したときなんて、工具の使い方もろくに知らなかったし」
「うん。でも、この夏をこの小さな相棒たちと走り抜けて、自分の手で汗水垂らして稼いで……なんだか、少しだけ大人になれた気がするんだ。もちろん、これから教習所に通って大きなバイクに乗るようになったら、もっとすごい世界が待ってるんだろうけどさ」
楓は隣にちょこんと停まっている愛車のヤマハ・ポッケに視線を向け、その燃料タンクを愛おしそうに優しく撫でた。
「でもさ、排気量がどれだけ大きくなっても、私たちがこの古屋のなかでスパナを握って、一緒に汗を流したこの日々のことは絶対に忘れないと思う」
その言葉に、僕は深く頷いた。
原付の50ccという小さな排気量。非力で、坂道ではエンジンを思い切り唸らせなければならないけれど、だからこそバイクと対話し、自分たちの足と手で世界を広げることの楽しさを、この二台は僕たちに教えてくれたのだ。
「あたりまえだろ。中型免許を取って、たとえどれだけ大きなバイクに乗るようになったって、このGS50とポッケは僕たちの原点だ。売り払ったりなんかしないさ」
僕がそう言うと、楓はぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。
「うん! これからは50ccと中型、両方の相棒を連れて、もっと遠くの海や、もっと高い山までツーリングに行こうね!」
目標の金額を貯めきった9月の夜。
古屋の天井で揺れる裸電球の光の下で、僕たちの青春のエンジンは、さらに大きく力強い未来へ向けて、最高の調子でアイドリングを続けていた。
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