第46話 9月の電卓と、終わらないシフト表
夜の静けさがすっかり戻ったいつもの「古屋」の中で、僕たちは小さなアルミの折りたたみテーブルの上に使い古したノートとシャープペンシルを広げていた。手元を心許なく照らすのは、天井の梁からぶら下がった裸電球の黄ばんだ光だけだ。ガレージの外からは、虫の音とともに、夜風がスギの葉を揺らす微かな音が聞こえている。
「20万円って、冷静に計算するとなかなかの壁だよね……」
楓はシャープペンシルのノック部分をカチカチと鳴らしながら、ノートのマス目にびっしりと書き込まれた数字の列をじっと見つめていた。そこには、これまでのアルバイト代の累計と、これからの予想収入、そして教習所の入所金から技能・学科の追加料金、さらには卒業後の免許交付手数料までが細かく、かつ生々しく書き込まれている。
「1月を目標にしていたときは、シフトをちょっと詰めればなんとかなるって甘く見てたけどさ。よく考えたら、夏休みが終わって新学期が始まれば、平日の夕方のシフトはどうしても削られるし、ガソリン代や日々の学校の雑費、たまの買い食い分を引いたら、冬に入る頃には絶対に貯金が数万円単位で足りなくなるよ」
僕も自分の手元にある電卓をパチパチと叩きながら、小さく深い息を吐き出した。
「だな。スーパーの品出しでどれだけ夜の遅い時間まで頑張っても、高校生の限られた時給と、法律で決められた労働時間の限界がある。それに、もし運悪く試験に落ちて補習でもつこうものなら、追加料金だってバカにならない。それに、冬の凍てつくような寒い時期に、教習所の慣れないコースで中型のクラッチ車を振り回すのは、原付とは違う別次元の緊張感があるし、お金だけじゃなくてスケジュールにも心に余裕を持たせたほうが絶対にいい」
少し前まで「冬か春先にはすぐにでも教習所に飛び込んでやる」と意気込んでいたけれど、実際の教習所費用と自分たちのリアルな労働量を正確な数字で照らし合わせてみると、いかに自分たちの見通しが甘かったかが嫌でも浮き彫りになってくる。
原付の免許を取ったときとはわけが違う。普通自動二輪の、あの重厚なクラッチレバーと何十キロもある車体を自分の思い通りに操るためには、それ相応の「対価」と「十分な準備期間」がどうしても不可欠なのだ。
「――ねえ、目標の時期、いっそもう少し後ろにずらさない?」
楓がスッと顔を上げ、真剣な光を宿した瞳で僕を見た。
「1月じゃなくて、夏休みが終わったあとの9月、いや、秋の後半くらいまで……もう少し期間を延ばして、アルバイトをしっかりやり抜くの。それまでシフトを落とさずに、ガッツリ働き続ける!」
9月、そしてその先の秋。
夏休みが終わって学校の授業や部活や日常が戻ってきたあとも、僕たちのアルバイト生活はそこでおしまいにならない。むしろ、夏を越えてもなおシフトを詰め込み、汗を流し続ける日々が長く続くことを、その宣言は意味していた。けれど、不思議と心の中には絶望感のようなものは微塵もなかった。むしろ、甘えを完全に捨てて、本当の意味で「自分の力で中型免許を掴み取る」ための腹が据わったような、清々しい覚悟が決まった気がした。
「賛成だ。9月までしっかり働き通せば、教習所の費用だけじゃなく、いざ免許を取ったあとのヘルメット代やグローブ代、そして万が一のときのバイクのメンテナンス予備費まで、余裕を持って貯まるはずだ。それに……」
僕は並んで停められているGS50とポッケのタンクに視線をやった。
「この相棒たちと過ごす秋のツーリングだって、まだまだ心置きなく楽しめるしな」
楓の顔にパッと明るい笑みが戻り、小さく、けれど力強くうなずいた。
「そうだね! 焦って中途半端な貯金で飛び込むより、しっかり準備万端で教習所の門を叩いたほうがカッコいいもん。よし、それじゃあ次の休みに店長に追加のシフト希望をまとめて出しに行こっと!」
ノートの端っこに『9月までバイト戦線継続!』と、勢いよく二重丸つきで書き込み、僕たちはペンを置いた。
季節はまもなく夏の終わりから、どこか切なくも心地よい秋へと移り変わろうとしている。けれど、二人の胸のなかにあるエンジンは、これまで以上に力強く、確かな熱を帯びて静かに回転を始めていた。
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