第44話 夏の終わり、それぞれのシフト表
背振の険しい山道を無事に下り切り、僕たちは夕暮れ時の佐賀市内の街並みを抜けて、いつもの「古屋」へと戻ってきた。ガレージのシャッターをガラガラと開け、GS50とポッケをそれぞれの定位置に静かに収めると、火照ったエンジンから発せられる微かな熱が、ゆっくりと夜の涼しい空気の中に溶けていく。
ロングツーリングの心地よい疲労感と、大きな山を越えた達成感に満ちた静寂がガレージを包み込む。けれど、その作業台の上には、明日から始まる現実を容赦なく告げる小さな紙切れが待ち構えていた。
「ふう……本当に楽しかったなあ、今日の背振。でも、明日からはもう現実に戻るんだよね」
楓は自分のヤマハ・ポッケのシートに腰掛け、リュックのポケットから一枚の薄い紙を取り出した。今週から来週にかけての、アルバイトのシフト表だ。僕も自分のポケットから同じように折りたたまれた紙を取り出し、二人の間に広げたコンクリートの床に並べて置いた。
「ほんとだな。お盆の特売に合わせて、僕のほうもスーパーの品出しの時間がみっちり詰まってるよ。特に夕方から夜にかけてのピークタイムは、ダンボールの山を崩すだけで腕がパンパンになりそうだ」
「私も! レジの応援が一番忙しい時間帯にガッツリ入ってる。次から次へとカゴの中身をバーコードに通して、お金の計算ミスに怯えながら笑顔を作るの、想像しただけでちょっと気が遠くなりそう……。でも、こうやってシフトの紙に並んだ数字を見ると、『いよいよなんだな』って気が引き締まるよね」
夏休みの前半、海岸線を風を切って走り、背振の山を自分たちの手で越え、古屋のなかで汗を流しながら原付をメンテナンスしてきた日々。その最高だった冒険の思い出のすぐ裏側で、カレンダーのページは確実に次の季節へと進み始めていた。中型免許の教習所代、そしてその先にある新しいバイクの購入資金。口で言うのは簡単けれど、それを自分たちの力で稼ぎ出すためには、毎日の単調な立ち仕事や、慣れない接客で汗を流すリアルな労働の時間が不可欠だった。
「ねえ、葵。バイトが忙しくなると、しばらくは遠出のツーリングもお預けになっちゃうかな」
少しだけ寂しそうな顔をした楓に、僕は首を横に振ってみせた。
「ううん、まとまった休みを取っての遠出はしばらく難しいかもしれないけどさ、毎日のバイトの行き帰りに、この相棒たちとトコトコ走る時間は変わらないだろ? それに、バイトが終わって夜のこの古屋に集まって、今日の稼ぎや教習所の計画を話すだけでも、それはそれで悪くないさ」
僕の言葉に、楓はパッと顔をほころばせた。
「それもそうだね! バイトでクタクタになって足が棒になった後に、この古屋で冷たい麦茶を飲みながらバイク談議するの、想像しただけでちょっと楽しそうかも。今日走った背振の道のここが大変だったねって、また愚痴り合ったりしてさ」
大きな夢に向かって進むためには、目の前の一歩を確実に踏み出さなくてはならない。
明日から始まるアルバイトの日々は、決してキラキラした冒険ばかりじゃないかもしれない。立ち仕事で足が痛み、思うように自由な時間が取れない日もきっとあるだろう。けれど、二人で並んで同じ目標に向かって汗を流すと思えば、それすらも青春の一ページのように愛おしく思えてくるのだった。
古屋の天井でうっすらと揺れる裸電球の黄ばんだ光の下、僕たちはそれぞれのバイクのハンドルを軽く叩き、明日からの奮闘を改めて誓い合った。夏の終わりは、僕たちを少しだけ大人にするための、新しい季節の始まりでもあった。




