第41話 夏の終わりのロータリーと、それぞれのエンジン音
山越えツーリングを控え、アルバイトのシフトを増やすという楓の決意を聞いた翌日。僕たちはいつものように僕の家の敷地にある古い物置――通称「古屋」の薄暗い土間に腰を落とし、今度はそれぞれのスマートフォン画面に表示されたシフトアプリの予定表や、ノートに書き殴った計算式と睨めっこしていた。
「そっちはどう? バイトの店長になんて言われそうだった?」
古びたスクーターのパーツカタログの隙間から顔を出し、楓が冷えたペットボトルの麦茶を喉に鳴らしながら尋ねてくる。
「うん、ちょうどお盆前後から夏休み明けにかけて、地元のスーパーの品出しとレジの応援で夜のシフトを少し長めにしてもらうことになったよ。これで教習所の入所金と、その後の教習代の足しには十分なるはずだ」
僕がそう答えると、楓は「よしっ、これで準備万端だね!」と、小さなガッツポーズを作って満足そうに微笑んだ。
原付でのツーリングを重ねるごとに、二台の小さなエンジンが奏でるトコトコという単気筒の鼓動は僕たちの日常にすっかり馴染んでいたけれど、それと同時に「もっと遠くの景色を見てみたい」「もっと高い山の向こう側へ行ってみたい」という気持ちが、僕たちの背中を確実に大きく押していた。50ccの原付が持つ手軽さや可愛らしさは何物にも代えがたいけれど、法定速度の壁や、急な登り坂でスピードが落ちてしまうもどかしさは、いつしか小さな憧れへと変わっていた。冬から春先にかけて中型免許(普通自動二輪免許)を取りに行くという明確な目標ができたことで、毎日のアルバイトの単調な品出し作業やレジ打ちさえも、将来の新しい相棒を迎えるための大切なステップのように思えてくる。
「ねえ、葵。次の山越えのルート、もう一回あのロードマップでしっかり確認しておこうよ」
楓がコンクリートの床に広げられた古びた地図の端を引っ張り、僕のほうへ引き寄せた。
「おっ、どれどれ。背振のほうを抜けて、深い山あいを通ってダム湖のあたりまで行くんだっけ」
「そう! そこを登りきったところのつづら折りの坂道、原付だときっとかなりエンジンを唸らせて、ローギアまで落とさないと登れないような急勾配もあるはずだよね。でも、だからこそ今のこの相棒たちと一緒に、どこまで踏ん張れるか、自分たちの手でしっかり確かめてみたいんだ」
楓の瞳は、夏の強い日差しに負けないくらい真っ直ぐに、そして力強く輝いていた。
免許を取ったら今乗っているスズキ・GS50やヤマハ・ポッケを手放すわけじゃない。むしろ、この小さな排気量で必死に坂道を登り、キャブレターの調子に一喜一憂し、古屋のなかで汗を流しながらオイルまみれになってメンテナンスした記憶のすべてが、きっとこれからの大きなバイクを安全に操るための、何よりも確かな土台になることを、僕たちは本能的に理解していた。
古屋の天井の梁を抜けていく風が、夏の熱気を少しだけ含みながら心地よく吹き抜けていく。
アルバイトのシフト表をそれぞれのリュックのポケットにしまい込み、僕たちはオイルの匂いが染み付いた土間からゆっくりと立ち上がった。
「よし、それじゃあバイトの日々が本格的に始まる前に、まずはあの山を二台揃って綺麗なエンジン音で登りきろうか」
僕がヘルメットを手に取ると、楓は自分のヤマハ・ポッケのキックペダルを軽く蹴り上げ、小気味よい単気筒のアイドリングをガレージの中に響かせた。
「うん! バイトでクタクタになる前に、最高の夏の思い出をもう一つ作ろう!」
それぞれの未来に向かって動き出した僕たちの夏は、まだもう少しだけ、心地よく熱い排気音を響かせながら続いていくのだった。




