第40話 夏の計画と、小さな決意
洗車を終えてすっかり綺麗になったGS50とポッケが並ぶ僕の家の古屋――その薄暗くもどこか落ち着くコンクリートの土間で、僕たちはしゃがみ込んだ。床に広げられたのは、使い古された周辺の折りたたみ式ロードマップだ。無数の折り目に沿って破れかけた紙の端を、風で飛ばないようにスパナやドライバーのグリップで押さえている。
「昨日走った海岸線は最高だったけどさ、夏休みはまだまだたっぷりあるんだよね」
楓は膝を抱えながら、地図の上に置いたスマートフォンを軽くスワイプした。画面には、昨日記録した海沿いの綺麗なオレンジ色の軌跡がまだ残っている。
「次は、海とは反対のほうに行ってみる? ほら、この地図のずっと南の方、山あいに抜けていくルートとかさ」
楓が指差した先には、険しい等高線が描かれていた。
海抜ゼロメートルの潮風香る海岸線から一転して、今度は緑深い山々とつづら折りの峠道が続くエリアだ。50ccの小さな単気筒エンジンにとって、急勾配の坂道は平坦な国道よりもはるかに過酷な試練になる。クラッチのない原付でトルクを維持しながらシフトダウンやローギアでの粘りを駆使し、エンジンを唸らせて登っていく山登りは、これまでのロングツーリングとはまた違った腕の見せ所だった。
「山のほうか……いいかもな。あそこなら木漏れ日の峠道が続くし、途中に綺麗な渓流やダム湖もあったはずだ」
僕が地図の等高線を目で追いながら頷くと、楓はふとスマホの画面から顔を上げ、少し真剣な顔つきになった。
「あのさ、葵。次の山越えの前に、私ちょっと話しておかなきゃいけないことがあったんだ」
「ん? どうしたの、急に」
「あのさ、夏休みの後半……。私、バイトのシフト、もっとガッツリ増やそうと思ってさ」
古屋のコンクリートの床に座り込んだまま、僕は思わずまばたきをした。
「バイトのシフトを増やす? 今でもけっこう入ってないか?」
「うん、でも夏休みはもっと稼ぎたいんだよね。店長にも頼んで、入れる日を限界まで増やしてもらうことにしたの」
なんでまた急に、と首を傾げる僕に、楓は少し照れくさそうに笑った。
「なんでって……決まってるでしょ。冬か、あるいは春先くらいを目標にさ、中型免許を取りに行こうと思ってさ」
「ちゅうがた……普通自動二輪、ってこと?」
「そう! 昨日の海までのツーリング、めちゃくちゃ楽しかったじゃん? でも、もっと遠くに行きたいし、この前の坂道みたいに、50ccだとどうしてもパワー不足でアクセル全開でもスピードが出なくなるところがあったでしょ? それに、二段階右折とか制限速度のことも考えるとさ……やっぱり、いつかはもっと大きなバイクに乗りたいって思ったんだよね」
楓の言葉に、僕はハッとさせられた。
確かに、あの海岸線の国道やこれまでの小さな坂道で、二台の50ccエンジンが必死に唸りを上げていた姿が脳裏に浮かぶ。原付ならではのトコトコとした楽しさは何物にも代えがたいけれど、もっと遠くの景色へ、もっと高い山の向こう側へと行きたくなる気持ちは、僕の胸のなかにも確実にあって、それを楓が真っ直ぐに言葉にしただけだった。
「中型免許……か。原付のこの車体ともずっと一緒にいたいけど、確かに大きなバイクでしか行けない世界もあるよな」
「でしょ? だから、夏休みの後半はバイトのシフトをマシマシにして、教習所の費用と……その、将来の新しい相棒のための資金をガッツリ貯めるの。葵は、どうする?」
楓のその問いかけに、僕の胸のなかに熱いものがこみ上げてきた。
「僕も……乗るよ。一人だけ取り残されて置いていかれるなんて絶対イヤだしさ。僕も同じ時期に教習所に行けるように、今のバイトのシフト、もう少し増やせないか店長に相談してみようかな」
「ほんと? よかったぁ! じゃあ、次の山越えツーリングが終わったら、二人揃ってバイト詰めの日々が始まるね!」
楓はパッと顔を輝かせ、先ほどまで地図の上に置いていたスパナを軽く持ち上げて見せた。
50ccの小さな相棒たちと過ごす最高の夏休み。その裏で、僕たちは少しずつ大人への階段を登り始めている。今はこの古屋の片隅にある小さな原付たちと、いつか手に入れるであろう大きなバイクの夢を重ね合わせながら、僕たちの夏はさらに熱を帯びていくのだった。




