第36話 防波堤の影と、冷えたおにぎり
唐津の市街地を抜け、さらに海沿いの細い旧道へと入っていくと、観光客の喧騒も嘘のように消え去り、聞こえてくるのは一定のリズムを刻む単気筒の排気音と、防波堤の外側から打ち寄せる穏やかな波の音だけになった。
「うわあ、ここ、すごく静かでいいところだね……!」
前を走る楓がゆっくりとポッケのスピードを落とし、道路の脇に広がるコンクリートの空きスペースへとバイクを滑り込ませた。僕もそれに倣ってGS50のエンジンを切り、サイドスタンドをしっかりと立てる。チリチリと微かな金属音を立てながら、熱を持ったエキゾーストパイプが海風の中でゆっくりと冷やされていく。
そこは、小さな漁港と白砂の浜が入り組んだ、地元の人しか知らないような隠れた防波堤の一角だった。
目の前にはどこまでも透き通った玄界灘の海が広がり、防波堤のコンクリートの影には心地よい海風が吹き抜けている。夏の強い日差しを避けるには絶好の場所だった。
「お疲れ様、楓。ここなら日陰だし、お昼にするのに完璧な場所だね」
「うん! 走ってる間は風があったからよかったけど、停まるとやっぱり夏の暑さが本格的だね。はあ、生き返る……!」
ヘルメットを脱いだ楓は、額に滲んだ汗をタオルで拭いながら、防波堤の縁に腰掛けた。
僕もヘルメットとグローブを外し、バイクのシートからリュックを下ろしてその隣に座る。リュックの奥から取り出したのは、今朝コンビニで買ったおにぎりと、ペットボトルの冷えた緑茶だった。
パッケージをビリビリと破り、包みから出したおにぎりを一口かじる。
潮風の塩気をほんのりと感じながら食べるおにぎりは、学校の教室や家で食べるのとは比べ物にならないくらい美味しく感じられた。
「んー! 最高のロケーションで食べるご飯って、どうしてこんなに美味しいんだろうね」
楓は緑茶のペットボトルをグビグビと喉に鳴らしながら、満足そうに目を細めた。
「わかるよ。自転車で遠出していた頃は、疲労でそれどころじゃなかったしね。原付なら、こうして遠くまで来ても余力を残したまま美味しいご飯を楽しめるのが最高のメリットだよね」
僕がそう言うと、楓は小さくうなずき、自分のヤマハ・ポッケに視線をやった。
白と赤の鮮やかな車体に、少しだけ潮風の湿り気を帯びたタイヤ。昨日の放課後に佐々木モータースでピカピカに磨き上げたばかりなのに、すでに車体の下部には海岸線の細かい砂ぼこりがうっすらと付着している。でも、その汚れさえも「ここまで自分たちだけで走ってきた」という確かな軌跡のようで、なんだか誇らしく見えた。
「ねえ、葵」
海風に前髪を揺らしながら、楓が少しだけ声のトーンを落として言った。
「夏休みが始まって、こうして初日から海まで来られたじゃん? 私、この夏が終わるのが今からもうちょっと寂しいなって思っちゃった」
その言葉に、僕は少しだけ胸の奥が締め付けられるような、温かい切なさを覚えた。
「まだ夏休みは始まったばかりだよ。それに、僕たちの相棒がいれば、夏が終わっても秋だって冬だって、いつでもどこへだって行けるさ」
僕の言葉を聞いて、楓はパッと顔を輝かせ、クスッと笑った。
「そっか。そうだよね、終わりを心配するより、次の週末にどこに行くかを考える方が大事だもんね!」
防波堤の向こう側で、穏やかな波がサラリと白波を立てて消えていく。
冷えたおにぎりの味が喉の奥に広がり、青い空と海に包まれた夏休み初日の昼下がりは、僕たちの胸のなかにいつまでも色褪せない思い出としてしっかりと刻み込まれていくのだった。
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