第34話 夏休みの始まりと、地図の上の青い海
放課後のチャイムが遠くの校舎から響き渡り、生徒たちの喧騒が徐々に引いていく中、僕たちは佐々木モータースのコンクリートの土間にしゃがみ込んでいた。チェーンの注油を終えたばかりのGS50とヤマハ・ポッケからは、まだかすかにオイルの甘い匂いと、走ってきたばかりのエンジンの温もりが立ち上っている。
「ねえ、葵」
ふと、楓がポケットからスマートフォンを取り出し、画面を僕のほうへ傾けた。そこには、佐賀の街を北へ抜けて玄界灘に面した唐津や糸島方面へと伸びる、見慣れない海岸線のルートが表示されている。画面の隅には、明日の日付とともに「夏休み初日」という文字が書き込まれていた。
「明日からの夏休み、初日はどこを走るかもう決めてた?」
「うーん、山あいの林道とか、この前行った川原もすごく良かったけどさ……」
僕は自分のGS50のリアタイヤのスポークを指先で軽く弾きながら、少しだけ考え込んだ。
「せっかくのまとまった休みだし、いつもと違う景色が見たいよな。例えば、たまには潮風を全身に浴びながら、さえぎるもののないまっすぐな水平線を見に行ったりさ」
スマホの画面に映る、青々とした海と白い砂浜の写真を見て、楓はパッと顔を輝かせた。
「それ、すごくいい! 山を登るのも楽しいけど、夏の海に向かってトコトコ走る原付って、なんか映画のワンシーンみたいじゃない?」
原付の50ccエンジンにとって、これまでの通学路やちょっとした坂道とは違う、片道四十キロメートルを超える本格的なロングツーリングになる。エンジンの排気量や燃料タンクの容量を考えれば、決して楽な道のりではないけれど、だからこそ挑戦しがいがあった。
「よし、それじゃあルートは唐津から玄界灘の沿岸を回るコースに決定だね。朝の涼しい時間に出発すれば、お昼前には海風を感じられるはずだ」
目的地が決まると、今度は当日へ向けた準備の細かな段取りが自然と動き出した。
「朝は何時に佐々木モータースの前に集合する?」
「夏休みだし、日差しが強くなってアスファルトが熱くなる前の朝七時とかどうかな? 途中でコンビニに寄って、お昼ご飯用のパンも買っていこう」
「賛成!」
夏休みの大きなイベントに向けた計画を立てているときのこの高揚感は、普段の退屈な授業を一瞬で吹き飛ばしてしまうほどのエネルギーを持っていた。お互いのバイクの調子は、昨日のメンテナンスで完璧に仕上がっている。「あとは自分たちの右手でアクセルを開けて、走るだけだ」という万全の安心感が、胸の奥を心地よく満たしていく。
そして翌朝、待ちに待った夏休み初日の朝がやってきた。
空には雲一つない最高の晴天が広がり、朝の冷たい空気が、これから始まる暑い一日を予感させる乾いた光に包まれている。約束の午前七時、いつもの曲がり角で待ち合わせた楓のヤマハ・ポッケは、朝の光を浴びて昨日よりも一段と誇らしく輝いて見えた。
「おはよう、葵! いよいよ夏休み本番、そして海だね!」
「おはよう、楓。今朝もキック一発でエンジンがかかったし、準備は万端だよ」
あおるような小気味よい単気筒のアイドリング音とともに、僕たちのGS50とポッケは、夏休みの青い海を目指して軽やかに走り出したのだった。
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