第33話 チェーンの給油と、週末の地図
泥をきれいに洗い流し、水分をウエスでしっかりと拭き取った二台の原付は、佐々木モータースの夕日に照らされてどこか誇らしげに見えた。けれど、水洗いをしたままでそのままにしておくのは、バイクにとって一番禁物だ。特にチェーン周りは水分が残っているとすぐに錆びてしまう。
「よし、それじゃあ最後はチェーンの注油をしておこうか」
僕はしゃがみ込んだまま、GS50のリアホイール付近に視線を落とした。駆動を伝えるチェーンのリンク部分には、水洗いで古い油分がいくらか流れてしまっており、金属同士が乾いたような色をしている。
「そうだね。昨日の林道で砂埃もかぶってるし、このまま放っておいたらすぐにキシキシ鳴り出しそうだもんね」
楓も自分のヤマハ・ポッケのリアタイヤの傍らにしゃがみ込み、専用のケミカルスプレーを手に取った。佐々木のおじさんから「使い終わったらちゃんと元の場所にしまえよ」と釘を刺されつつ借りてきたチェーンクリーナーとチェーンルブの缶が、夕暮れのコンクリート地面に二つ並んで置かれている。
「まずはクリーナーで残った汚れを飛ばしてから、新しいルブを吹くんだっけ」
「そうそう。一気にドバッといかないで、少しずつタイヤを回しながらピンの間に浸透させるように吹くのがコツだよ」
僕は自分のバイクのリアタイヤを手で軽く浮かせ、時計回りにゆっくりと回しながらクリーナーのノズルを押した。プシューという乾いた噴射音とともに、黒ずんだ古い油の汚れが細かい泡となって下の受け皿へポタポタと落ちていく。隣では楓も真剣な表情でポッケのタイヤを回し、器用にスプレーを吹き付けていた。
汚れをきれいに拭き取ってから、今度は本番のチェーンルブだ。
粘り気のある透明なオイルがローラーの隙間にしっかりと行き渡っていくのを確認しながら、僕たちは黙々と作業を進めた。無心になってバイクのパーツと向き合っているこの静かな時間が、放課後の部活動のような、僕たちだけの特別な絆のようにも思えて心地よかった。
「ふう、これで完璧!」
楓は満足そうにスプレー缶のキャップをパチンと閉め、手についた微かな油の匂いを気にしながらふっと息をついた。
「うん、これで次の週末も安心して走れるね」
僕もノズルをウエスで拭きながら、ふと口を開いた。
「次の週末か……。またどこか走りに行きたいね。今度は反対側の山の方とか、もう少し遠くの川原とかさ」
その言葉に、楓はパッと顔を輝かせた。
「いいね! 私、昨日スマホの地図アプリで見つけたんだけどさ、少し離れたところにあるダムの下流に、すごく綺麗な河原があるんだよ。そこなら原付でも余裕で行けそうだし、今度お弁当持ってリベンジ……じゃなくて、今度はもっと大きなおにぎり作っていこうかな」
「リベンジって、今回は大成功だったろ」
「うふふ、そうだね。大成功だったからこそ、次ももっと美味しく作りたいなって思ってさ」
楽しそうに笑う楓の横顔を見ていると、日曜日のツーリングが終わってしまった寂しさはすっかり消え去り、次の休日に向けたワクワクした期待感が胸いっぱいに広がっていくのを感じた。自転車通学でただ通り過ぎていただけの毎日に、こんなにも鮮やかな目的地ができたのは、間違いなくこの小さな相棒たちのおかげだった。
道具をきれいに片付け、借りたケミカルスプレーを佐々木モータースの棚に戻すと、辺りはすっかり夕暮れの藍色に染まり始めていた。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか。明日も学校だし」
「うん、そうだね。また明日、いつもの曲がり角で!」
佐々木モータースの前でそれぞれの愛車にまたがり、キックペダルを踏み下ろす。
パタパタパタと小気味よく響いた単気筒のエンジン音は、夕闇に包まれ始めた住宅街の道へと僕たちを優しく押し出していった。週末の地図を胸に描きながら、僕たちの日常はまた明日へと軽やかに走り出していく。




