第32話 放課後のガレージと、拭き取れない泥
朝の爽やかな通学路を駆け抜け、いつも通りのホームルームと退屈な授業を何とかやり過ごしたあと、僕たちの足は自然と「あそこ」へ向かっていた。
放課後のチャイムが鳴り響き、クラスメイトたちが部活動や買い食いへとそれぞれの方向へ散っていく中、僕と楓は自転車置き場ではなく、放課後の静まり返った駐輪場を抜けて佐々木モータースの前へとやってきていた。朝の時点ではまだ気づかないふりをしていたけれど、ヘルメットを脱いだときから、僕たちの相棒の足回りがどうなっているかは一目瞭然だった。
「うわあ……やっぱり、昨日の林道の赤土、けっこうこびりついちゃってるね」
ポッケのステップのあたりを覗き込みながら、楓が小さくため息をついた。
昨日のツーリングの途中、木漏れ日の差す美しい林道を抜けたとき、タイヤが跳ね上げた細かい砂利や湿った赤土が、フェンダーの裏側やエンジンのクランクケースの下部にたっぷりとこびりついていた。朝のうちはただの「勲章」のように誇らしく見えていたその汚れも、こうして授業を終えて冷静になってみると、機械のためには早めに落としておいた方がいい「錆の原因」にしか見えなくなってくる。
「そうだね。そのままにしておくと、特にスポークやフレームの細かい隙間に湿気が残って錆びやすくなっちゃうから、今日の放課目は軽く洗車とメンテナンスをしておいた方がよさそうだな」
僕がGS50のサイドスタンドをしっかりと立てながら言うと、楓は「うん、そうだね!」と力強くうなずいた。
「こんにちはー」
奥の作業場を覗き込むと、ちょうど古いエンジンのパーツをウエスで磨いていた佐々木さんが、油まみれの手を止めて顔を上げた。
「お、昨日の今日でまた顔出しやがって。どうした、どっか調子悪いのか?」
佐々木さんは面白そうに髭面の顔を緩めながら、僕たちに声をかけてくれた。
「いえ、バイクはすこぶる調子いいんですけど、昨日林道に行ったせいで足回りが赤土だらけになっちゃって……。もしよかったら、店の端っこを借りて、軽く洗車させてもらえませんか?」
僕がそう頼むと、佐々木さんは「なんだ、そんなことか」と豪快に笑った。
「いいぞ、水道のホース使っていいから、表に流れ出た泥はあとできれいに流しとけよ。あと、チェーンのグリスも飛んでるだろうから、そこのスプレー使っていいからな」
「ありがとうございます!」
僕たちは礼を言うと、早速バケツと使い古しのブラシ、そしてウエスを借りて準備を始めた。
「それじゃあ、僕が水をかけるから、楓はフェンダーの裏とか泥が溜まりやすいところを頼むよ」
「了解! 任せて、昨日の思い出の赤土、綺麗に洗い流してあげるからね」
バケツに汲んだ冷たい水道水を、ホースからひねった水でポッケの車体にそっとかけていく。
シャリシャリと乾いた音を立てて赤土が溶け出し、コンクリートの地面に赤い水たまりが広がっていった。
楓は小さなブラシを片手に、ポッケのエンジンブロックの冷却フィンや、チェーンカバーの隙間に詰まった泥をトントンと優しく掻き出していく。その真剣な横顔は、昨日のビューポイントで見せた少女のような笑顔とはまた違い、しっかりと自分のバイクに向き合う「整備士」の顔をしていた。
僕も自分のGS50のフロントフォークや、オイルタンクの周りをタオルで丁寧に拭き上げていく。
車体を磨けば磨くほど、昨日一日いかにこの小さなエンジンが僕たちを支えて走ってくれたかが、手ざわりを通してダイレクトに伝わってくる。チェーンのリンクの隙間にはまだグリスと微量の砂が混じっているから、佐々木さんに借りたチェーンクリーナーを吹いて、ルブを注し直しておいたほうがよさそうだった。
「ねえ、葵」
作業の手を少し止め、タオルで汗を拭いながら楓がふっと空を見上げた。
「ん?」
「昨日さ、林道を走っているとき、本当に楽しかったなあって、今朝になってもずっと考えてたんだ。ただ走るだけじゃなくてさ、こうして自分で綺麗にしたり、悪いところはないかなって気にしてあげたりする時間が、なんかすごく好きなんだよね」
その言葉を聞いて、僕は手を動かすのを止め、目の前で誇らしげに佇むGS50のタンクに目をやった。
「わかるよ。自転車に乗ってた頃は、パンクしたらただ絶望して、チェーンが外れたら直せなくてお父さんに連絡するしかなかったもんな。自分の手で直して、自分の右手でアクセルを開けてここまで来られるって知っちゃったら、もう元の世界には戻れない気がするよ」
僕たちの会話を聞きながら、佐々木さんが作業場の奥から「お前ら、若いのにいい趣味してやがるな」と声をかけてきた。
汚れをきれいに拭き取られた二台の原付は、朝よりも少しだけ輝きを取り戻し、次の週末にでもまたどこかへ走り出しそうな気配をまとっていた。
「よし、大体きれいになったね!」
楓は満足そうにブラシをバケツに入れ、濡れた手をタオルでキュッと拭いた。
「そうだね、これなら完璧だ。お疲れ様、楓」
「うん、葵もお疲れ様!」
放課後の柔らかな夕日に包まれた佐々木モータースの前で、僕たちは顔を見合わせて小さく笑い合った。
特別なイベントが終わっても、こうしてバイクと共に過ごす日常そのものが、今の僕たちにとってはかけがえのない宝物になり始めている――そんなことを実感しながら、僕たちは道具を片付けるために再び作業場へと歩き出した。
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