第31話 朝の坂道と、新しいギヤ
翌朝の空は、昨日の帰り道が嘘のようにどこまでも高く晴れ渡り、夏の終わりの乾いた風が通学路の街路樹を心地よく揺らしていた。雲一つない青空は、まるで昨日僕たちが駆け抜けた山頂のビューポイントの空をそのまま持ってきたかのように澄み切っている。
いつもより少しだけ軽やかな足取りで自宅の玄関を出ると、いつもの曲がり角の少し手前で、見覚えのあるヤマハ・ポッケにまたがった楓の姿が目に飛び込んできた。制服に身を包んだ彼女は、ヘルメットを小脇に抱えながらバイクのステップに足をかけ、僕の姿を見つけるとパッと顔を輝かせて大きく手を振った。昨日あんなに一日中、朝から晩まで一緒にエンジン音を響かせて走っていたというのに、こうしていつもの通学路で制服姿の彼女と再び並ぶと、なんだか不思議で、そして少しだけ新鮮な響きが胸をくすぐる。
「おはよう、葵!」
「おはよう、楓。昨日ぶりだね」
「うん! 昨日あんなにずっと一緒だったのに、制服でこうして朝に会うと、なんだかすごく久しぶりな気がするね。朝はちゃんと起きて学校の支度できた?」
「余裕だよ。むしろ、いつもより早く目が覚めちゃったくらいさ。楓こそ、朝起きるの眠くなかった?」
「眠かったけど、ガレージのポッケの顔を見たら一発で目が覚めちゃった!」
他愛のない、けれどいつもの朝とはどこか違う弾んだ会話を交わしながら、僕たちはそれぞれの愛車にまたがった。
お互いにヘルメットを深く被り、あご紐をカチリと締めてから、息を合わせてキックペダルを力強く踏み下ろす。
パタパタパタ、パタパタパタ……と、軽快な単気筒のアイドリング音が静かな住宅街の朝の空気に心地よく響き渡った。昨日の夕方、あんなに愛おしく感じ、そして旅の終わりを告げていたエンジン音を再び聞きながら、僕たちは並んで学校へと続くアスファルトの道をゆっくりと走り出した。
今日のルートは、いつもの見慣れた、ごく普通の通学路だ。
昨日まで走っていた険しい峠道や、木漏れ日の美しい未舗装の林道、遠くの山並みが見渡せるビューポイントのような劇的な景色はここにはない。あるのは、コンクリートの壁と、きれいに整備された街路樹、そして所々に建つ住宅の並びだけだ。
けれど、不思議なことに、いつもなら毎朝ため息をつきたくなるようなあの長く急な坂道に差し掛かったとき、目の前に広がる世界は昨日までとは全く違って見えていた。
「ねえ、葵!」
前方から、楓の弾むような声がヘルメットのシールド越しに風に乗って届いてくる。
「どうした?」
「なんだか今日の坂、昨日までのあの険しい峠道に比べたら、すっごく楽勝に見えない?」
振り返った楓の目は、昨日の林道やダム湖のほとり、そしてビューポイントで見せたような、冒険心を宿した明るい輝きに満ちていた。あの急な坂道を目の前にしても、怯えるどころか、どこか楽しげな挑戦者のような色を湛えている。
その言葉を聞いて、僕は思わずヘルメットの中で小さく吹き出し、それからアクセルグリップをほんの少しだけ力強くひねった。
「そうだね。あんなに険しい山道や砂利道を二人で登れたんだから、こんな舗装された坂道なんて怖くないよ」
ローギアからセカンドへ。
いつもより少しだけメリハリをつけて、けれどリズミカルにシフトペダルを左足のつま先で掻き上げる。
すると、GS50の小さな単気筒エンジンは頼もしい鼓動をさらに一段階力強く響かせながら、軽やかに坂道を駆け上がっていき始めた。車体がグッと押し出されるような心地よい加速感と、下半身に伝わってくる確かな振動がたまらない。
すぐ隣を並走する楓のポッケも、負けじと小気味よい排気音を立ててエンジンを唸らせながら、ぴったりと並んでついてくる。ミラー越しに見える彼女の背中は、昨日よりもさらに頼もしく、自分のバイクをしっかりとコントロールしている喜びに満ちあふれていた。
バイクのシートとシートの間に空いた、自転車一台分の変わらない距離。
その物理的な空間は昨日と同じだし、お互いのバイクが少し離れて走るその距離感もいつもの通りだ。けれど、その空間を行き交う空気感や、並んで走る僕たちの心の中には、昨日のツーリングで共に乗り越えた時間と、そこで分かち合った確かな温もりがしっかりと息づいていた。ただの「クラスメイト」でも「単なる幼馴染」でもなく、自分たちの手でエンジンを直し、メンテナンスを重ねて、同じ風を受けながら遠くの景色を目指した「相棒」同士なのだという実感が、胸の奥をじんわりと温めてくれる。
やがて、見慣れた学校の大きな正門と、その奥にある駐輪場が見えてきた。
そこにはいつものように、他の生徒たちの自転車がぎっしりと並んでいる。けれど、その中に停められた僕たちのGS50とポッケは、昨日一日を一緒に駆け抜けた誇らしげなエンジン熱と、少しだけ跳ねた泥の跡をまだかすかに纏っていた。それはまるで、昨日の冒険の記憶を静かに誇示しているかのようだった。
「さあ、着いたね」
「うん。今日も一日、がんばろっか」
エンジンをキルスイッチで止め、カチリと静かになった車体からひょいと降りる。
ヘルメットを外し、朝の爽やかな風に揺れた髪を軽く手で整えながら、僕たちは並んで駐輪場を後にした。
原付の小さなエンジンが繋いでくれた特別な休日の思い出を胸に、僕たちの新しい日常は、今日も変わらず、けれど昨日までとは少し違う軽やかなリズムでしっかりと動き始めていくのだった。
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