第3話 キャブレターの洗礼
「――おい嘘だろ、これ……」
作業を始めてから数日後の放課後。僕は古びた木の作業台の前で、両手からポタポタと黒い液体を垂らしながら絶句していた。
手に持っているのは、GS50の心臓部であるキャブレター――の、成れの果てだ。
長年の放置でガソリンが完全に腐り、内部のジェット類は緑青とタールのような得体の知れない固形物で完全に詰まっていた。パーツクリーナーを吹き付けても、ヘドロのようにドロドロとした汚れが溶け出すだけで、一向に綺麗になる気配がない。
「どうしたの、葵。そんな真っ青な顔して……うわ、なにこれ、コーヒーの底のカスみたいなの詰まってるじゃん」
向かいの席で、ポッケのキャブレターをバラしていた楓が覗き込んで、遠慮のない笑い声をあげた。
彼女のほうも、手元のボルトを外すのに夢中になるあまり、前髪のあたりに黒いグリスの汚れをつけていて、人のことを笑えたものではない。
「笑い事じゃないって。こんなの直るのかよ。佐々木モータースの親父さんは『パーツクリーナーと真鍮ブラシで気長にやれ』って言ってたけどさあ……」
「文句言いながらも、手は動いてるじゃない。ほら、見てこれ」
楓が誇らしげに見せたのは、ピカピカに磨き上げられたポッケのキャブレターのフロートチャンバーだった。くすんでいたアルミの地肌が、根気強いブラッシングの末に鈍く銀色の光を放っている。
「……まじか。お前、いつの間にそんな綺麗に……」
「コツさえ掴めば意外と楽しいのよ、こういうの。プラモデル作るのとはまた違う、本物の機械を触ってるっていう実感がさ」
確かに、楓の言う通りだった。
最初はただの「やっかいな鉄くず」に見えていたものが、こうして一つひとつパーツを外し、汚れを落とし、構造を理解していくうちに、ただのゴミではなく「精密な機械としての顔」を取り戻していく。
教科書に出てくる物理の公式や理科の実験よりも、目の前で分解されていくキャブレターの仕組みのほうが、よっぽど僕の知的好奇心を刺激していた。
「……しゃあない、もう一息がんばるか」
僕はため息交じりに笑うと、再び細いワイヤーとパーツクリーナーを手に取り、詰まったジェットの穴に向き合った。
ツンと鼻をつくケミカルの匂い。窓の外では、春の夕暮れがゆっくりと山影を朱色に染め始めている。
チャリ通の往復でただ疲れ果てていただけの毎日に、今は明確な「目的」と「続き」がある。
日が暮れて肌寒くなってきた古屋の中で、カチャカチャと響く工具の音と、僕たちの他愛のないおしゃべりは、どこまでも心地よく響いていた。




