第2話 オイルの匂いと最初の一歩
古い古屋のなかに運び込まれた二台のバイクは、まだ冷気が残る薄暗がりの中で、静かに眠っていた。
スズキのGS50とヤマハのポッケ。
どちらもかつては元気に走っていたはずなのだが、今の姿はただの「鉄の塊」と言ったほうが近かった。
「こうして間近で見ると、想像以上にヤバいな……」
僕は自分のスニーカーのつま先で、GS50のフロントフォークをトントンと軽く叩いてみた。
カツン、と乾いた、しかしどこか芯のない濁った音が響く。
車体全体には年月が作り上げた模様のようにびっしりと赤錆が浮いていて、チェーンは完全に固着し、キックペダルを踏み込もうにもびくともしない。ゴム製のパーツはあちこちにひび割れが走り、長い間の放置生活の過酷さを物語っていた。
隣でポッケを観察している楓も、まだ肌寒いのか制服のブレザーの袖をキュッと引っ張りながら、険しい顔をしている。
「うん、手強いね。油断してたわけじゃないけど……これはやりがいがありそう」
そう言って笑う楓の頬には、いつの間にか作業中についたのか、うっすらと黒いオイルの汚れがついていた。
僕たちは肌寒さの残る休日の午後、それぞれの家からかき集めてきたボロ布やワイヤーブラシ、そして父親の道具箱からこっそり持ち出したレンチのセットを、古びた木の机の上に広げていた。
「なあ、楓。そもそも僕たち、こんなバラバラの鉄くず直せるのかよ? キャブレターとかエンジンの仕組みなんて、正直よくわかんないんだけど」
僕が不安になって問いかけると、楓は得意げにポケットから一冊の分厚い雑誌を取り出した。表紙がボロボロに剥がれた、古いバイクの整備解説本だ。
「バカだなあ、準備なしでこんな大勝負に出るわけないでしょ。この本、地元の『佐々木モータース』の親父さんに頼み込んで、読ませてもらったんだから。それに、簡単な分解やサビ落としの順番なら、親父さんにコツをみっちり仕込んでもらったのよ」
佐々木モータースといえば、町の外れにある、いつも作業着の油まみれの親父さんが一人でやっている小さなバイク屋だ。中学の頃、自転車のチェーンが外れたときに直してもらった縁で、楓はたまにそこに顔を出していたらしい。
「へえ……あの頑固そうな親父が、よく教えてくれたな」
「『若い奴がバイクをイジるなんて珍しい、せいぜい怪我しないようにやれ』って、古い工具もいくつかお下がりでもらったんだから。感謝しなさいよね」
楓が胸を張って見せたのは、使い込まれて味の出たスパナのセットだった。
なるほど、ただ無謀な冒険をしているわけではないらしい。少しだけ安心した僕に、楓は容赦なく指示を飛ばす。
「さあ、ボーッとしてないの! まずは『汚れ』と『サビ』を落として、現状を正確に把握すること! 最初の関門は、このガチガチに固まったサビ落としよ」
楓はそう言うと、手際よく軍手をはめ、スプレー式の潤滑防錆剤を手に取った。
シャシュッと小気味いい音とともに、まだ冷たい空気の中に白く細かい霧がポッケのボルトの隙間に吹き付けられていく。
「よし、僕も負けてられないか」
僕はGS50の頑固なサビが浮いたハンドル周りに向き合った。
ひんやりとした冷たい鉄の感触。鼻を突くのは、何年も放置されたガソリンと古いグリス、そしてまだ冬の名残をとどめる木造の古屋の湿った土の匂いだ。
都会的な快適さとは無縁の、むき出しの物質の匂いが、妙に新鮮だった。
ウエスを手に取り、サビ落としのケミカルを吹き付けてひたすらゴシゴシと擦る。
最初はびくともしなかった赤錆の層が、少しずつ削れて茶色い粉になって剥がれ落ちていく。地道で、腕がパンパンになるような単調な作業だ。それでも、動かすうちに冷えた空気が少しずつ温まっていくような気がした。
「ねえ、葵。こうやって手を動かしてるとさ、なんか部活とも違うし、勉強とも違う変な達成感ない?」
作業の手を休め、額に滲んだ汗を袖で拭いながら楓が言った。
彼女の顔には、いつの間にか鼻の頭にも黒いススがついている。その間抜けで、でもどこか生き生きとした表情を見て、僕は思わず笑ってしまった。
「そうだな。チャリ通の寒さも、新学期の憂鬱も、今はこの手元の作業にかき消されてる気がするよ」
動かないはずのエンジンが、いつかはこの古屋を飛び出して、あの春の澄んだ青空の下を走り抜ける――その日のことを想像すると、油まみれの腕に再び自然と力がこもった。
まだ肌寒い山あいの古屋に、カチャカチャと響く工具の音と、僕たちの笑い声が小さく反響していく。
不格好な相棒を蘇らせる春は、こうして確かな手応えとともに、静かに動き出した。




