第28話 夕暮れの気配と、帰路へのシフトダウン
ビューポイントで吹き抜ける風にしばらく吹かれたあと、僕たちはそろそろ麓へ向けて動き出すことにした。
空の色はまだ青さを残しているものの、太陽の光の角度は確実に傾き始め、山肌の影を少しずつ長く引き延ばし始めている。朝のひんやりとした朝露の匂いはすっかり消え、代わりに草木や土が一日かけて温められた乾いた香りが鼻腔をくすぐった。
「それじゃあ、そろそろ帰りのことも考えないとね」
僕がヘルメットのあご紐をパチンと留めながら言うと、楓は名残惜しそうに遠くの山並みから目を離し、小さくうなずいた。
「そうだね……楽しい時間はあっという間だなあ。もっとこのままずっと走っていたい気もするけど」
その言葉には、今日のツーリングが最高のものだったという実感と、終わってしまう寂しさが入り混じっていた。
僕も全く同じ気持ちだった。けれど、バイクのタンクに残るガソリンの量や、少しずつ肌寒さを帯びてきた夕方の気配が、そろそろ日常へと舵を切る時間だと静かに告げている。
バイクにまたがり、キックペダルを踏み下ろす。
カチリ、と心地よい金属音を立ててエンジンが目覚め、心地よい単気筒の振動が足の裏やハンドルを通じて全身に伝わってきた。朝一番の緊張したエンジン音とは違い、ここまでたっぷりと走り込んで温まったエンジンは、どこか優しく、落ち着いた鼓動を刻んでいるように感じる。
ビューポイントを後にし、林道をゆっくりと下り始めた。
行きはあんなに険しく感じられた砂利道や小さなカーブも、帰りの下りでは不思議と身体になじみ、クラッチとブレーキのタイミングが自然と噛み合っていく。ローギアからセカンドへ、そして必要に応じてサードへ。シフトペダルをリズミカルに踏み替えるたび、バイクという機械を自分の手足で完全にコントロールしているという確かな手応えが胸を満たした。
「気をつけてね、葵!」
少し先を走る楓のポッケが、軽やかな排気音を響かせながらコーナーをクリアしていく。
ミラー越しに見えるその小さな背中は、朝の出発時よりもどこか頼もしく、そして誇らしげに見えた。自転車通学でただひたすら向かい風に耐えていた日々を思えば、自分たちの手でエンジンを直し、メンテナンスを重ねてここまでやってきたという事実は、僕たちの世界を確実に広げてくれていた。
やがて林道を抜け、見覚えのある県道へと合流する。
アスファルトの滑らかな感触がタイヤを通じて伝わると同時に、車の往来が少しずつ増え、街の気配が戻ってきた。それまで山の中の静寂に浸っていた僕たちにとって、その日常の音は少しだけ現実世界へ引き戻されるような、気恥ずかしい響きを持っていた。
「ねえ、葵! あそこの自販機でちょっとだけ休憩しない?」
道路沿いにぽつんと佇む小さな商店の軒先を見つけ、楓がウインカーを出してバイクを路肩に寄せた。
「うん、ちょうどいい頃合いだね。喉も渇いたし、少し休もうか」
僕もGS50をその隣に並べ、エンジンを切る。
パタパタという音が消えると、あたりには再び穏やかな静けさが戻ってきた。夕暮れ時の淡い光が、二人の足元に長い影を落としている。
自動販売機の冷たい缶コーヒーとスポーツドリンクをそれぞれ買い、ベンチに腰を下ろした。
「ふぅ……生き返る……」
楓は缶の冷たさを手のひらで確かめるように握りしめながら、ふっと柔らかく息をついた。その横顔には、長い道のりを走り抜けた心地よい疲労感と、充実しきった満ち足りた表情が浮かんでいる。
「本当に、あっという間だったね」
僕がそう呟くと、楓はコップ代わりに缶を見つめたまま、嬉しそうに目を細めた。
「うん。でも、すごく楽しかった。自転車じゃ絶対に見られなかった景色を、こうして二人で見られたから」
バイクのシートの間に空いた、相変わらずの小さな隙間。
その距離感は朝から変わっていないけれど、ここまで同じ風を受け、同じ景色を共有してきた僕たちの間には、言葉にしなくても通じ合う確かな絆のようなものがしっかりと結ばれていた。
日暮れの迫る空の下、僕たちの小さな休日の旅は、いよいよ最後のクライマックスへと向かっていこうとしていた。
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