第26話 林道の木漏れ日と、小さな寄り道
「それじゃあ、反対側の林道の方を少しだけ覗いてみようか」
僕がヘルメットのシールド越しにそう声をかけると、楓はパッと表情を輝かせ、まるで子供のように「賛成!」と小さくガッツポーズを作ってみせた。
ダム湖の管理事務所前を名残惜しく離れ、僕たちは再びそれぞれの愛車にまたがる。キックペダルを力強く踏み下ろすと、乾いた単気筒のアイドリング音が静かな山あいにパタパタと心地よく響き渡った。先ほどまでの長距離の登りでしっかりと温まり、絶好調の状態を維持しているエンジンは、小気味よい振動をステップ越しに僕の足の裏へと伝えてくれる。機嫌よく次のステージへと僕たちを誘ってくれるような、そんな頼もしい鼓動だった。
メインの県道から一本外れ、鬱蒼とした木々のトンネルが続く細い枝道へとハンドルを切る。
アスファルトの滑らかな舗装はみるみるうちに途切れ、ここからは決して走りやすいとは言えない砂利と、雨で固まった赤土が混じり合う未舗装の林道が続いていた。原付の細いタイヤが滑らないよう、僕は神経を集中させながらスロットルを慎重に微調整し、車体をまっすぐに保つ。
「うわ、すごい木漏れ日……! 綺麗!」
少し先を走る楓のポッケが、足元の細かい砂利をシャリシャリと音を立てて小さく弾きながら、リズミカルに進んでいく。
頭上を覆う豊かな緑の枝葉の隙間から、まるで無数のスポットライトが降り注ぐかのように柔らかい太陽の光が差し込み、二人の影を白っぽい地面に長く引き伸ばしていた。風が通り抜けるたびに、葉と葉が擦れ合うカサカサという乾いた音と、湿った土や草木特有の青々しい匂いがヘルメットの隙間から鼻腔をくすぐる。麓の街を包んでいた都会の排気ガスや、アスファルトのじっとりとした熱気とは全く違う、生き生きとした山の空気が全身を包み込んでいくようだ。
しばらくの間、二台の原付でトコトコとエンジン音を響かせながら進むと、道は緩やかな下り坂へとその表情を変えた。
視界の左側をふと見やると、そこには豊かな緑を縫うようにして流れる小さな渓流が姿を現す。透明度の高い水が、大小さまざまなゴロゴロとした川石を縫うようにしてキラキラと太陽の光を反射させながら流れていた。ただその音を聞いているだけで、さっきまで峠の登りで感じていた夏の暑さや疲労が、嘘のようにスッと引いていくのがわかる。
「ねえ、葵! ちょっとあそこでバイク停めてみない?」
渓流のそばに、丁度よくバイクを数台ほど並べて停められそうな、少し開けた平らなスペースを見つけた楓が、振り返りながらヘルメット越しに声を弾ませた。
「うん、ちょうどよさそうだね。あそこにしようか」
僕はブレーキレバーを優しく握り込み、カチカチと金属の冷める音を立てるGS50を白っぽい砂利のスペースへと滑り込ませた。
サイドスタンドをガチャンと確実におろし、ヘルメットのあご紐を外して頭を持ち上げると、耳に飛び込んでくるのは絶え間なく流れる清流のせせらぎと、梢のあいだを渡る鳥たちのさえずりだけだった。車の走行音も、遠くの生活の気配も、ここには一切届かない。
「はあ……生き返る……。空気が全然違うね」
楓はポッケのシートからヒョイと降りると、両手を大きく真上につき出すようにして、思い切り背伸びをした。その小さなしなやかな背中を見つめながら、僕も自分のバイクの鉄のタンクにそっと手のひらを置く。
ここまで、オイル漏れの兆候も、チェーンの伸びによる異音もない。二人の相棒は、こんな未舗装の悪路でさえも一言の弱音も吐かずに、しっかりと僕たちをここまで運んできてくれたのだ。
「ねえ、葵、ちょっとこっち来てよ! すごいもの見つけた!」
少し離れた川岸のほうから、楓のはしゃいだ声が風に乗って聞こえてきた。
何事かと慌てて足場を確かめながら近づくと、楓はしゃがみ込み、透き通った浅い水面をキラキラした目で指さしている。その指の先を覗き込むと、驚くほど透明な水の中で、小指の先ほどの小さな魚の群れが、水流に逆らいながらスイスイと涼しげに泳いでいた。
「わあ、ほんとだ……こんな綺麗なところに、小さな魚がいるんだね」
「うん。なんだか、時間を忘れちゃいそう。ずっとここにいられそう」
楓は満足そうにふっと柔らかく微笑むと、その場にしゃがみ込んだまま、きらめく水面と木々の間から差し込む光の粒を見上げて、大きく深呼吸をした。
日々の学校生活や、アルバイトに明け暮れる忙しい毎日の隙間に、こんなにも贅沢で静かな時間が流れていることが、なんだか少し不思議で、そしてたまらなく愛おしかった。木々の隙間から落ちる光の粒が、楓の肩や髪の上で細やかに揺れている。
静かな林道の奥、二人だけの秘密の場所のような渓流のほとりで、僕たちの夏休みはさらに深く、穏やかな色を帯びていくのだった。




