第25話 ダム湖のほとり、お弁当と冷たいお茶
木製のベンチに腰を下ろした僕たちのすぐ目の前には、どこまでも静かなエメラルドグリーンの水面が広がっていた。麓のうだるような暑さが嘘のように、標高の高いこの場所を吹く風はひんやりと心地よく、峠を登るあいだにすっかり火照った肌を優しくなでていく。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
楓が持ってきたお弁当箱の蓋をパカッと開けると、ふわりと香ばしい美味しそうな匂いが辺りに立ち上った。中身は、色鮮やかなおにぎりと、きれいに焼き目がついた卵焼き、そしてプチトマトやウインナーが隙間なく丁寧に詰められている。朝早く起きて僕の分まで用意してくれたんだと思うと、それだけで胸の奥がキュッと締め付けられるような、温かくて甘い気持ちがじわりと広がっていくのを感じた。
「どう? 昨日、卵焼きの焼き加減を失敗しないようにスマホでレシピ動画まで予習したんだからね」
少し誇らしげに胸を張る楓の顔には、早起きした名残のわずかな眠気と、あの険しい峠道を無事に登りきった達成感からくる、見違えるほど晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
お箸で卵焼きを一つまみ口に運ぶと、だしの優しい甘さとほんのりとした塩気が口いっぱいに広がる。
「うん、すごく美味しいよ。これなら大成功だね、完璧だ」
「ほんと? よかったぁ……。実は作るの、けっこう緊張したんだから。葵の口に合うか心配だったんだよ」
安堵したようにふっと表情を緩めた楓を見て、僕は自分のサイドバッグから冷えたペットボトルを取り出し、キャップをひねって彼女へと差し出した。
「ほら、お茶。峠を登るの、結構力入ったろ。喉乾いたでしょ」
「あ、ありがとう、葵。助かったよ」
楓は差し出された冷たいお茶を受け取り、嬉しそうな目を細めながら一口飲んで、ふうっと小さく息をついた。
ゴクゴクと喉を鳴らす音を聞きながら、僕も自分のおにぎりを大きく頬張る。塩気が絶妙に効いた梅干しのおにぎりは、汗をかいた体に染み渡るように美味しかった。
こうして風の抜けるベンチに並んでお弁当を食べていると、今朝早くに自宅を出発して、二人で並んで交通量の少ない国道をトコトコと走り抜けてきたことが、なんだか遠い昔の出来事のようにも思えてくる。
「ねえ、葵」
しばらく静かに景色を眺めながらおにぎりを食べていた楓が、手元の包み紙を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「ん?」
「私たち、本当にここまで原付で来ちゃったんだね。こうして見ると、信じられないくらい遠くまで来ちゃったなぁ……」
そう言って、楓は駐車スペースに停めてある二台のバイクへと視線を向けた。
僕のGS50と、楓のポッケ。どちらも決してピカピカの新車ではないし、むしろちょっとくたびれたところもある。時には機嫌を損ねてキックペダルを何度も踏まされる、手のかかる小さな相棒だ。けれど、自分たちの手で汚れたプラグを替え、伸びたチェーンを張り、日々のメンテナンスを重ねてきたからこそ、この雄大な自然の景色の中にちょこんと佇む姿は頼もしく、何よりも愛おしく見えた。
「そうだね。自転車通学をしていた頃は、通学路の途中にあるちょっとした坂道が見えただけで、それだけで絶望的な気持ちになってたのにさ。まさか、自分たちの原付のエンジン音で、こんな山のてっぺんまで来られるなんて思ってもみなかったな」
「うん……。あの頃の自分たちに教えてあげたいよね。自転車じゃ到底行けなかった場所へ、自分たちの手でエンジンをかけて、風を切って走っていけるんだよって」
楓の言葉に、僕は深くうなずいた。
原付の最高速度なんてたかが知れているし、遠くへ快適に旅をするなら、車や電車の方がずっと早いし楽に決まっている。だけど、自分の右手首をひねる力と、下半身に伝わるエンジンの生々しい鼓動を感じながら一歩ずつ進むこのスピード感こそが、今の僕たちにとって一番ちょうどいい世界の広がり方なのだと、今日という日が教えてくれているような気がした。
木々の葉が夏の風に揺れて、サワサワと心地よい葉擦れの音を立てる。
お弁当をきれいに平らげた僕たちは、冷たいお茶のペットボトルを傾けながら、しばらく言葉もなく目の前のダム湖を眺めていた。バイク一台分ほど空いたベンチの隙間は相変わらずそのままで、必要以上に近づくわけでも、かといって離れるわけでもない。けれど、ここまで同じ景色を目指して走ってきたという確かな空気感が、二人の間を穏やかに満たしていた。
「さてと、お腹もいっぱいになったし、そろそろ次の予定はどうする?」
少し長めの静寂を破るように、僕は空になったお弁当箱を綺麗に包みながら尋ねた。
「うーん、このままもう少し湖の周りのワインディングを走ってから麓に下るか、それとも反対側にある別の林道のほうを少しだけ覗いてみる?」
楓は少しだけ首を傾げ、好奇心の宿った明るい瞳で僕を見つめ返した。
夏休みの空はどこまでも高く、時間はまだ十分にたっぷり残されている。僕たちの小さな原付の旅は、最高のかたちで折り返しを迎えたばかりだった。




