第23話 木陰の距離と、三瀬峠の中腹
木陰の涼しさは心地よかったけれど、夏の午前の陽射しはすぐにアスファルトの熱気と一緒に僕たちの体を包み込んでくる。
ペットボトルのお茶で乾いた喉を潤すと、楓は立ち上がりながら自分のポッケのシートをポンと叩いた。
「よし、休憩おしまい! 頂上まであと一息だし、行こっか、葵」
「そうだね。ここから先は勾配が少しきつくなるらしいから、エンジンの回転数に気をつけて登ろう」
再びヘルメットを被り、あご紐をパチンと留める。
キックペダルを踏み下ろしてエンジンに火を入れると、乾いた排気音が再び静かな山あいに響いた。
先ほどまでの緩やかな上り坂とは違い、三瀬峠の中腹に差し掛かった道は、つづら折りのカーブが連続する本格的なワインディングロードへと姿を変えていた。
トコトコと軽快な音を立てて先行するポッケの後ろを、僕は少し車間距離を開けて追う。小さな原付のエンジンは、アクセルを開けるたびに「頑張れ」と唸るような力強い鼓動を響かせている。
ヘアピンカーブを一つクリアし、また一つ。
登るにつれて視界が開け、木々の隙間から遠くの街並みがミニチュアのように小さく見えてきた。
どれだけペダルを漕いでも息が切れるだけで前に進まなかった自転車の頃とは違い、右手首を少しひねるだけでグイグイと坂道を登っていく感覚は、何度味わっても新鮮で、胸の奥が熱くなるような高揚感があった。
と、その時だった。
前方から、グォーッと低い重低音を響かせながら、大柄なネイキッドタイプの大型バイクが猛烈な勢いでカーブを曲がって下ってきた。
すれ違いざま、ライダーの男性がこちらを一瞥し、軽く左手を上げて挨拶をしてくれる。いわゆる「ヤエー」と呼ばれるバイク乗り同士の挨拶だ。
「わっ……!」
楓は驚いたようにポッケの車体を少し左に寄せ、慌ててブレーキレバーに指をかける。大型バイクが通り過ぎたあとに残った風圧と排気ガスの匂いが、夏の空気にフワリと溶けた。
「すごい排気音だったね……! ああいう大きなバイク、いつか乗れるようになるのかな」
バイクを路肩に一旦停めて一息ついた楓が、ヘルメットのシールドを上げながら目を丸くしている。
「そうだね。いつかバイトでお金を貯めて、街の自動車学校に通って中型免許を取ったら、あんな風に遠くへビューンって行けるようになるかもね。僕たちも、いつかはあっち側にステップアップしたいね」
僕も自分のGS50のエンジンを切って隣に並び、遠ざかっていく大型バイクの音を聞き送りながら言った。
峠道では、こうして同じように走るバイク乗りとすれ違うことがある。自分たちの乗っている原付は一番小さな排気量だけど、同じ二輪の世界の仲間として挨拶を交わしてもらえたことが、なんだか少し誇らしかった。
「そうだよね。佐々木モータースの親父さんに怒られながらも、自分たちの手でオイルを替えて、チェーンを張って……こうして自分の力で峠を登ってきてるんだもんね」
楓は自分のポッケの車体を優しく撫でながら、嬉しそうに微笑んだ。その横顔には、さっきまでの不安はすっかり消えていた。
少し休憩を挟んだあと、再びエンジンをかけて出発する。
先ほどすれ違った大型バイクのようにはいかないけれど、トコトコと一生懸命に回転数を上げて坂を登る僕たちの原付は、それはそれで確かな愛おしさがあった。
しばらく走り続けたところで、また別のツーリンググループとすれ違う。今度はカブの集団で、揃いのリアボックスを積んだベテラン風のライダーたちが、僕たちを見つけて満面の笑みで会釈をしてくれた。
「こんにちはー!」と元気よく声を返すと、楓も負けじと手を小さく振り返す。
すれ違うバイカーたちとの短い交流が、今日のツーリングをただの移動ではなく、どこか特別な冒険のように彩ってくれる。
「ねえ、葵。ちょっとだけ後ろ、走ってもいい?」
急なヘアピンカーブの手前で少しスピードが落ちたとき、楓がふとそんなことを言った。
「え? 順番代わるってこと?」
「ううん、そうじゃなくてさ……」
楓は自分のポッケのステップに両手を掛け、ふっと息を吐き出すと、少しだけ照れくさそうに目を伏せた。
「ちょっと足が疲れちゃったのとさ……それに、さっきの坂、葵の背中を後ろから見てたら、なんだか安心したから。……なんてね」
その言葉に、胸の奥が不意に跳ねた。
真夏の暑さのせいだけじゃない熱が、耳たぶのあたりまで一気に駆け上がっていくのを感じる。
少しだけ前を走る僕の背中を、彼女はずっと見ていてくれたんだ。子供の頃からいつも並んで自転車を押していたはずの僕たちは、いつの間にかこうしてそれぞれの相棒に乗り、互いの背中を見送りながらここまで走ってきた。
「……そっか。じゃあ、ここから先は僕が先頭を引っ張るよ。カーブの手前で合図するから、それに合わせてギアを落としたら大丈夫だからさ」
照れ隠しを混ぜるように少し大きめの声で言うと、楓はぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに小さくうなずいた。
「うん! お願いね、葵」
青空の下、木々の間を吹き抜ける風が、熱を持った肌を心地よく撫でていく。
すれ違うバイカーたちの温もりを感じながら、二人の距離は相変わらずバイク一台分ほど空いていたけれど、さっきまでの気恥ずかしさはどこかへ消え、胸の奥には確かな温もりと、頂上へと向かう新しい推進力が満ちていた。
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