第20話 オイルの匂いと、それぞれの距離
迎えた週末の午前中。僕たちは再び佐々木モータースの作業場にいた。
約束通り、今日はいよいよGS50とポッケのエンジンオイル交換に挑戦する日だ。
「おう、来たな。オイルは消耗品だからな、しっかり自分で管理できるようになれよ」
親父さんに挨拶を済ませ、作業台の脇からそれぞれのオイル缶やボトルを受け取る。もちろん、こうした消耗品や部品代は自分たちの小遣いから支払うルールだ。
「いくらになります?」と財布を取り出すと、親父さんは「そこらに置いとけ」とぶっきらぼうに顎をしゃくる。小銭入れから少し重みのある千円札と硬貨を数え、まとめてカウンターの隅に置くと、いよいよ本格的な作業が始まった。
「よし、それじゃあ手順を説明するぞ。まずはエンジンが完全に冷え切ってないうちに、古いオイルを抜く。ドレンボルトの下に受け皿を置け」
親父さんの指示に従い、僕はGS50の車体の下を覗き込む。
エンジン底面にあるボルトにメガネレンチを掛け、慎重に力を込める。「カキッ」という小さな手応えとともにボルトが緩み、そこからゆっくりと、使い込まれて黒ずんだ古いオイルがドプドプと受け皿へと流れ落ちてきた。
独特の香ばしさと少し焦げたような匂いが、作業場のなかにふわっと広がる。
「うわ、こんなに黒くなるんだ……」
隣で自分のポッケの作業を見守っていた楓が、驚いたように覗き込む。
「4stのGS50はそうやって下から抜くけどな、隣のポッケは2stだから構造が違うぞ。お前、分かってんのか?」
親父さんの言葉に、楓は「あ、そっか!」と小さく声を上げた。
「2stはエンジンオイルとガソリンが別体じゃなくて、専用の分離給油タンクにオイルを継ぎ足すんだっけ」
「その通り。タンクの中身が空っぽになったら焼き付いて一巻の終わりだ。ほら、シートを開けてみろ」
言われるがまま、楓はポッケのシートをパカッと持ち上げた。
小さな車体のシート裏には、エンジンオイルを補充するための給油口がちょこんと隠れている。キャップを開けると、中にある2st専用オイルの残量は確かに少なくなっていた。
親父さんの見守る中、楓は専用のボトルを傾け、こぼさないように慎重にトクトクと琥珀色の液体を注ぎ込んでいく。少し甘いような、独特のオイルの匂いが鼻腔をくすぐった。
「お、いいぞ。その調子だ」
親父さんの短い褒め言葉に、楓はふっと安心したような笑みを浮かべる。
しっかりとキャップを締め、シートを戻すと、親父さんは満足そうにうなずいた。
「よし、どっちもバッチリだな。人間で言えば血液みたいなもんだからな、オイルの管理は基本中の基本だぞ」
親父さんの言葉にうなずきながら、僕も自分のGS50の作業を終わらせる。新しいパッキンを挟んでドレンボルトを規定トルクで締め、下から新しいオイルを慎重に注ぎ込んだ。自分の手でバイクの命を繋いでいくような、不思議で誇らしい実感が胸に広がる。
「よし、最後にアイドリングさせて、漏れがないか確認しろよ」
キックペダルを踏み下ろすと、GS50もポッケも、いつもより一段と軽やかで滑らかな排気音を響かせて目覚めた。
アイドリングの安定した音を聞き、親父さんは満足そうに腕を組む。
「上出来だな。これでまたしばらくは安心して走れるはずだ」
作業を終えて手を洗い、佐々木モータースをあとにした僕たちは、そのまま町を抜けて少し離れた見晴らしのいい丘へと向かった。
青空の下、トコトコと軽快に並んで走る二台のバイク。メンテナンスを終えたエンジンは吹け上がりが一段と心地よく、アクセルを開ける手が自然と楽しくなる。
丘の上でエンジンを止め、ヘルメットを脱ぐと、吹き抜ける初夏の風が心地よく汗を引かせてくれた。
目の前には、どこまでも広がる田園風景と、その中を一本の線のように伸びるアスファルトの道が続いている。
「ねえ、葵」
バイクのタンクに腰掛けた楓が、遠くの景色を眺めながらふと口を開いた。
「こうやって自分たちでお金を出し合ってオイルを買って、メンテナンスしてさ……この子たちのことが、ますます大事になってくるね」
その横顔は、初めて佐々木モータースの奥でボロボロのバイクを見たときよりも、ずっと頼もしく、そして大人びて見えた。
「うん……そうだね。最初はただ乗れればいいって思ってたけど、今はどこへでも行ける気がするよ」
少しだけ距離の縮まった隣同士のシート。言葉にしなくても、お互いの胸にある温かい実感が自然と通じ合っているような気がした。
オイルの匂いを微かに纏った手でヘルメットを抱えながら、僕たちはまだ見ぬ次の目的地へ向けて、静かにアクセルを開ける準備を始めた。




