第3話「境界線の歪み」
その日の朝も、凪はいつも通りの手順で完璧な「飛鳥馬凪」を作り上げ、大学へと向かった。
寝不足の頭を冷ますような、少し肌寒い春の風がキャンパスを吹き抜けていく。いつものように人当たりの良い笑顔を周囲に振りまきながら、凪は本館の掲示板の前で足を止めた。正確には、スマートフォンの画面に届いた、所属する専門演習――ゼミのグループラインの通知を確認するためだった。
凪が選んだのは、マクロ経済学を専門とする少人数のゼミだ。
このゼミを選んだ最大の理由は、教授の温厚な人柄でも、研究内容への興味でもない。単に「普段の演習室が、本館の2階にあるから」だった。
凪にとって、大学内で履修する講義を選ぶ基準はすべて「教室の階数」に集約されている。
1階から3階までの教室で行われる講義であれば、多少の無理をしてでも潜り込む。しかし、4階以上の教室で行われる講義は、どんなに単位が取りやすく、魅力的な内容であっても最初から選択肢から除外していた。
シラバスを隅々まで読み込み、教室の配置を頭に叩き込み、徹底的に「高い場所」を避けて組み立てられた時間割。それが、凪がこの2年間、平穏な学生生活を維持するために張り巡らせてきた防衛線だった。
しかしその朝、スマートフォンの画面に表示された文字は、凪の完璧な計算を無残に打ち砕いた。
『連絡:本日のマクロ経済学演習ですが、2階の演習室のプロジェクターが故障したため、急遽【5号館の502教室】に変更となります。時間は変更ありません。各自、間違えないように集まってください』
「……っ」
画面を見つめたまま、凪の指先が凍りついたように止まった。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。まるで冷たい氷水を直接血管に流し込まれたかのように、全身の血の気が一気に引いていくのが分かった。
5号館、502教室。
それは、5号館の「5階」にある教室を意味していた。
「あ、凪。おはよう。掲示板見てた?」
背後から声をかけられ、凪は肩を大きくびくつかせた。慌てて表情を繕いながら振り返ると、同じゼミ生の美咲が、ノートを抱えて立っていた。
「あ……うん、おはよう、美咲さん。今、ラインの通知を見たところだよ」
「ねえ、困っちゃうよね。5号館ってエレベーターがないから、あそこまで階段で上らなきゃいけないじゃない? 朝から運動させられる身にもなってほしいわ」
美咲は「最悪ー」と小さく笑いながら、お気に入りのトートバッグを肩にかけ直した。
彼女にとっては、ただの「面倒な階段の上り下り」に過ぎないのだ。20歳の健康な大学生であれば、誰もが抱く程度の、些細な愚痴。
だが、凪にとっては違った。
「5階」という単語、そして「エレベーターのない高い建物」という条件。それらは凪の脳内で、最も触れてはならないトラウマのスイッチを容赦なく押し下げた。
「……そうだね。ちょっと、急な変更でびっくりしたよ」
「本当よね。早く行かないと遅刻しちゃうし、一緒に行こう?」
「うん。……行こうか」
断る理由が見つからなかった。
ここで「俺は5階に行けないから休む」と言えば、美咲は確実に怪訝な顔をするだろう。なぜ行けないのか、どこか身体が悪いのか、それとも高所恐怖症なのか。質問を重ねられれば、凪の「普通」の仮面は剥がれ落ちてしまう。
凪は引き攣りそうになる頬の筋肉を必死に制御し、いつも通りの「親切な同級生」の笑顔を浮かべて、彼女の隣を歩き出した。
5号館は、キャンパスの最も奥に位置する、創立当初からある古いレンガ造りの建物だった。
重厚な佇まいは歴史を感じさせるが、内装は薄暗く、美咲の言う通りエレベーターの設備はない。中央にある幅の広いコンクリートの階段だけが、上層階へと続く唯一のルートだった。
建物のエントランスをくぐった瞬間、凪の嗅覚が、古いコンクリートと埃の混ざった独特の匂いを捉えた。
その匂いが、凪の記憶の底にある「別の古い校舎」の記憶を呼び覚まそうとする。凪は奥歯を噛み締め、必死にそれを押し留めた。
「じゃ、上りまーす。あー、気が重い」
美咲が軽快な足取りで階段を上り始める。凪もそれに遅れまいと、一歩を踏み出した。
1階から2階へ。まだ大丈夫だ。足取りは軽い。
2階から3階へ。胸の奥で、トクトクと鼓動が速くなり始める。掌にじっとりと嫌な汗がにじみ、トートバッグの持ち手を握る力が強くなる。
「ねえ、凪くん。来月の発表のレジュメさ、もう準備進んでる?」
前を歩く美咲が、振り返らずに話しかけてくる。
「え……? ああ、うん。データは、だいたい、集まったから……週末には、形に、できると思う」
自分の声が、微かに震えているのが分かった。息がうまく吸えない。
3階の踊り場を過ぎ、4階へと続く階段に足をかけた時、周囲の空気が一変したように感じられた。
窓の外に目をやると、キャンパスの木々の梢が、自分たちの足元へと沈んでいくのが見える。
視界が開ければ開けるほど、凪の頭の中で、あの不快なノイズが音量を増していった。
『――なぜ、見殺しにした?』
「くっ……」
凪は思わず、胸元を強く押さえた。
心臓が、狂ったようなリズムで肋骨の内側を叩いている。ドクドク、ドクドクと、耳の奥で自分の血流の音がうるさいほどに響く。
4階のフロアにたどり着いた時、凪の足は、まるで地面に縫い付けられたかのように動かなくなった。
目の前には、さらに上へと続く、5階への階段がある。
その階段の先が、妙に白く、眩しく光って見えた。まるで、あの日の「屋上への扉」へと続いているかのように。
「あ……、は、ぁ……」
浅い呼吸が、喉の奥で引き攣る。
視界の端が急速に狭まり、暗い斑点がいくつも点滅し始めた。過呼吸の発作だ。激しい動悸のせいで、目眩がして立っていられなくなる。コンクリートの床が、まるで底なしの沼のように歪み、自分を奈落へと引きずり込もうとしている感覚に襲われる。
これ以上、上へ行ってはならない。
4階という境界線を越えて、5階の高さに身を置いてしまえば、自分は本当に狂ってしまう。あの子と同じように、重力に惹かれて下へと落ちてしまう――。
「……ぎくん? 凪くん、どうしたの?」
数段先を上っていた美咲が、足を止めて振り返った。
彼女の瞳に、明らかな困惑の色が浮かんでいる。凪の顔色が、尋常ではないほど真っ白に変色していたからだ。
仮面が、壊れる。
このままここで倒れれば、すべてが台無しになる。自分が「普通ではない」ことが、周囲に露呈してしまう。
凪は、残されたすべての理性を振り絞り、強引に「完璧な笑顔」の形を顔面に張り付けた。
全身の震えを止めるために、トートバッグを抱える腕に血がにじむほどの力を込める。
「……ごめん、美咲さん」
掠れた声を、なんとか喉から絞り出す。
「え? 何が?」
「急に、さ……。昨日の夜から、ちょっと胃の調子が悪くて。この階段を上ったら、急に目眩がしてきちゃってさ」
「えっ、大丈夫!? 顔、すっごく青いよ?」
「うん。……悪いんだけど、今日のゼミは、欠席するって教授に伝えてもらえるかな。ちょっと、このまま保健室に行くか、アパートに戻って休むよ」
凪は、一言発するごとに激しくなる動悸を隠すため、あえて一歩、後ろの階段へと下がった。
高い場所から、少しでも遠ざかるために。
「そうなんだ……。無理しないでね。教授にはちゃんと伝えておくから」
「ありがとう。……助かるよ。じゃあ、お先に」
美咲が心配そうに見送る中、凪は踵を返し、階段を駆け下りた。
走って、走って、一刻も早く、この「高さ」から逃れるために。
4階から3階、3階から2階へ。
階数を下げるごとに、胸の圧迫感がほんの少しずつだけ和らいでいく。しかし、完全に発作が収まるわけではない。
1階のエントランスを飛び出し、地面の上に両足がついた瞬間、凪は物陰にあるベンチへと崩れ落ちるように座り込んだ。
「はぁッ、はぁ、は、ぁ、くそっ……!」
カバンの中から、狂ったようにサプリメントのボトルを引っ張り出す。
キャップを外す手が震え、白い錠剤が数粒、地面のコンクリートにこぼれ落ちて白く砕けた。凪はそれを気にする余裕もなく、残った錠剤を口に放り込み、噛み砕いて無理やり飲み込んだ。
強烈な苦味が広がり、脳の芯を麻痺させていく。
凪はベンチの上で前屈みになり、頭を深く抱え込んだ。
ただの5階だ。たかが、大学の教室の変更だ。
それだけのことで、自分はここまで無様に崩壊してしまう。日常生活のほんの少しのイレギュラーで、張り巡らせていた境界線が簡単に歪み、過去の絶望に引き戻される。
地面を見つめる凪の瞳から、恐怖の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
どれだけ「普通」を演じようとも、自分の内側にあるトラウマの根は、深く、鋭く、凪の心を縛り付けたままだった。
第3話をお読みいただきありがとうございます!
さて、前回の後書きで「これからは各章の最後だけにします!」と宣言したばかりなのですが……ごめんなさい、早速前言撤回させてください!(笑)
色々と今後の展開を考えた結果、物語が大きく動く話までは、各話に後書きを入れさせていただくことにしました。
今回の第3話では、同級生の美咲にとっては単なる「面倒な階段の上り下り」でしかない5階への教室変更が、凪にとってはトラウマのスイッチを押される絶望的な出来事として描かれました。限界を迎えて階段を逃げ下りてしまった凪ですが、彼が普段どれだけ無理をして「普通」を演じているのか、その脆さが伝わっていれば嬉しいです。
次回は、手持ちの薬が底を突きかけ、不眠と悪夢にさらに追い詰められていく凪の限界の夜が描かれます。
引き続き、ギリギリの精神状態で踏ん張る凪を見守っていただけると幸いです。少しでも「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ページ下部の【☆マーク】からの評価やブックマークへのご登録をよろしくお願いいたします!




