第2話「大人のライセンス」
大学のキャンパスは、春特有の根拠のない高揚感に満ちあふれていた。
新入生を勧誘するサークルの立て看板が並び、色とりどりの私服に身を包んだ学生たちが、眩しい太陽の光を浴びて笑い合っている。 すれ違う誰もが、これから始まる輝かしい未来を疑っていないような、そんな無邪気な空気が満ちていた。
その雑踏の中を、飛鳥馬凪は教科書の入ったトートバッグを肩にかけ、軽やかな足取りで歩いていた。
「あ、飛鳥馬くん。おはよう」
「おはよう、高橋さん。今日のレジュメ、もう受け取った?」
「ううん、これから。混んでるかな?」
「さっき通った時はまだ空いてたよ。早めに行った方がいいかもね」
「そっか、教えてくれてありがとう!」
すれ違う同学年の女子学生に声をかけられ、凪は淀みのない笑顔で応じる。
高すぎず低すぎない、聞き取りやすいトーンの声。 相手に不快感を与えない適度な距離感と、親しみやすさを感じさせる目線の合わせ方。 それらすべてが、凪の脳内で瞬時に計算され、出力された「完璧に無難な大学生」の振る舞いだった。
彼女が笑顔で去っていくのを見送りながら、凪は口角の形を維持したまま、そっと胸の内で息を吐く。
二時間足らずの睡眠という最悪のコンディションだったが、アドレナリンが出ているのか、身体の怠さは不思議と感じなかった。 ただ、頭の奥が微かに痺れるような、現実から一歩浮いているような感覚だけがある。 ポケットの中で、サプリメントの容器が歩くたびにシャカシャカと小さな音を立てていた。 それが、今の凪を現実世界に繋ぎ止めるかすかなノイズだった。
今日の最初の講義は、大教室で行われる『社会心理学概論』だった。
数百人を収容できる階段教室に入ると、凪は迷わず中央やや前方の、通路側の席を選んで座った。
大学の講義において、「完璧に無難」であるための最適なポジション。 それがここだった。
一番前の席は教授に目を付けられやすく、目立ちすぎる。 逆に最後列の席は、不真面目な学生たちが集まりやすく、私語に巻き込まれるリスクがある。 中央の、やや前。 ここなら授業に集中しているように見え、なおかつ周囲の雑音からも適度に距離を置くことができる。 そして何より、通路側の席であれば、万が一、あの発作が起きそうになった時、誰の邪魔もせずに素早く教室の外へ脱出することができる――。
そこまで計算して席を選んでいる自分に、時折、吐き気がする。 だが、そうしてあらゆるリスクを排除しておかなければ、凪は外に出ることすらできないのが現実だった。
「よお、凪。お前、相変わらず来るの早いな」
背後から肩を叩かれ、凪はビクリと身体を震わせそうになるのを、超人的な自制心で押さえ込んだ。
振り返ると、同じ経済学部の友人である拓海と、サークルが同じの健太が、だらしない笑みを浮かべて立っていた。
「おはよう、拓海、健太。そっちこそ、一限に間に合うなんて珍しいじゃないか」
「いや、今日の教授、出席点うるさいって先輩から聞いたからさ。落としたらマジで留年が見える」
拓海が隣の席にどさりと荷物を置き、健太がその隣に滑り込む。
二人は今どきの大学生らしく、髪を軽く染め、流行りのストリート系の服を着こなしていた。 凪はといえば、黒髪の短髪に、シンプルな白シャツとネイビーのチノパン。 個性的ではないが、清潔感があり、誰からも嫌われないスタイルだ。
「なぁ凪、昨日のサッカー見た? 代表戦」
健太がスマホの画面を見せながら話しかけてくる。
「あ、見たよ。後半アディショナルタイムのゴール、凄かったな。まさかあの角度から決めるとは思わなかった」
「だろ!? 俺、居酒屋で大騒ぎしちゃってさ。お前も呼べばよかったわ」
「昨日はちょっと、実家から荷物が届く時間だったからさ。次は誘ってよ」
嘘だった。 昨日の夜は、部屋の隅で膝を抱え、ただ時間が過ぎるのを待っていただけだ。
しかし、凪の口から出る嘘は、あまりにも自然で、滑らかだった。 相手を傷つけず、自分のプライベートにも踏み込ませない、完璧な防壁。
講義が始まると、凪はノートを開き、前方のスクリーンに映し出されるスライドの文字を、綺麗な文字で書き写していった。
時折、教授の言葉に深く頷き、熱心に耳を傾けるポーズを取る。 教授からの印象を良くしておくことは、成績を維持するためだけでなく、「問題のない優秀な学生」という仮面を補強するために必要不可欠だった。
(……二十一歳、か)
ノートの余白に、ふとそんな文字を書きそうになり、凪はシャーペンの芯を引っ込めた。
先月、凪は二十一歳になった。 二十歳を越え、大人としての権利と責任がより一層現実味を帯びてくる年齢だ。 周囲の友人たちは「いよいよ本格的な大人の仲間入りだな」と大騒ぎし、歳を重ねることを無邪気に喜んでいた。
だが、凪にとって「二十一歳」という年齢は、ただの重荷でしかなかった。
大人になるということは、過去の責任をより深く背負うということだ。 あの16歳のまま時間が止まってしまったあの子を置き去りにして、自分だけが着実に年齢を重ね、大人のライセンスを更新していく。 その事実自体が、凪にとっては裏切りのように思えてならなかった。
講義が終わり、チャイムが鳴ると、教室内は一気に騒がしくなった。
「あー、マジで眠かった……。なぁ、次の講義まで昼飯行こうぜ。学食、今日唐揚げ定食安いらしいし」
拓海が伸びをしながら言った。
「いいね。凪も行くでしょ?」
健太に促され、凪は笑顔で頷く。
「うん、行こう。お腹空いたしね」
昼時の学食は、戦場のような混雑ぶりだった。
トレイを持った学生たちの熱気と、油の匂い。 賑やかな笑い声が天井に反響して、凪の耳の奥で微かな耳鳴りを引き起こす。
凪はいつものように、友人たちの会話のペースに合わせ、適切なタイミングで相槌を打ち、適切なトーンで笑った。
「そういえばさ、凪ってサークル長やらないの? 次の幹部決め、みんな凪がいいって言ってるんだけど」
唐揚げを口に運びながら、拓海が思い出したように言った。
凪が所属しているのは、週に数回、のんびりとテニスを楽しむインカレサークルだった。 人当たりが良く、誰の悪口も言わず、仕事もきっちりとこなす凪は、部員たちからの信頼が厚かった。
「いや、俺は幹部とか向いてないよ。みんなを引っ張るより、裏でサポートする方が性に合ってるし」
凪は困ったように笑いながら、やんわりと辞退した。
「えー、もったいない。凪がやってくれたら、女子の参加率も上がるのになぁ」
「健太、それは下心が透けすぎ」
友人たちが笑う。 凪も一緒に笑う。
――サークル長なんて、絶対に引き受けるわけにはいかなかった。
組織のトップに立つということは、それだけ多くの人間の注目を集めるということだ。 自分の過去や、内面の異常性に気づかれるリスクが跳ね上がる。 何より、責任ある立場に就く恐怖が、凪の身体を芯から拒絶させていた。
責任を果たす。 誰かを守る。 そんな資格は、あの日に失ってしまったのだから。
昼食を終え、午後の講義も無難にこなし、気づけば外は夕暮れ時に差し掛かっていた。
オレンジ色の光がキャンパスの建物を長く染め上げ、影を引いている。
「あー、やっと終わった! よし、今夜は飲むぞ!」
校舎を出たところで、健太が拳を突き上げた。
「だな。駅前の新しい居酒屋、金曜だから混む前に席取ろうぜ。 ……あ、凪。当然お前も来るよな? 今日こそ二十一歳の誕生日祝い、仕切り直しさせてくれよ」
拓海が凪の肩に腕を回し、親しげに顔を覗き込んできた。
その瞬間、凪の脳裏に、昨夜の悪夢の残響が過った。
『お前だけが、のうのうと「普通」に生きるのか?』
冷たい汗が、背中をすっと伝う。
このまま友人たちと居酒屋に行き、酒を飲み、笑い合う。 それは「完璧に無難な日常」の延長線上にある、ごく自然な若者の姿だ。 しかし、今の凪の精神は、これ以上の「擬態」を維持できる限界を迎えていた。 薬の効果が切れかけているのか、胸の奥で小さな動悸が始まっている。
ここで無理をして酒を飲み、万が一、取り乱すようなことがあれば――。
凪は、すぐにいつもの「爽やかな仮面」を貼り付けた。
拓海の腕を優しく外しながら、申し訳なさそうな、しかし相手を不快にさせない完璧な笑顔を作る。
「ごめん、拓海、健太。本当にありがたいんだけど……今日はパスさせてほしいんだ」
「えー、なんでだよ凪。課題でもあるの?」
「うん、実は来週提出のレポートが、まだ全然終わってなくてさ。 この土日でどうしても形にしておかないと、マジで単位が危ないんだよね。 せっかく誘ってくれたのに、本当にごめん」
凪は両手を合わせて、小さく頭を下げた。
その態度はどこまでも誠実で、嘘をついているようには到底見えなかった。
「そっか……単位じゃしょうがねぇな。 凪がそこまで言うなら、マジでヤバい課題なんだろ?」
「お前、真面目だもんなぁ。 じゃあ、レポート終わったら、次は絶対に来いよな」
「うん、約束する。次は俺から誘うよ。 二人とも、俺の分まで楽しんできて」
じゃあね、と手を振り、凪は駅へ向かう友人たちとは反対の方向へ歩き出した。
背後から聞こえる二人の賑やかな笑い声が、徐々に遠ざかっていく。
誰もいなくなったキャンパスの並木道。
その影に踏み込んだ瞬間、凪の身体から、張り詰めていた糸が切れるように力が抜けた。
「……はぁ」
口から漏れたのは、ため息というよりも、血を吐き出すような重い喘ぎだった。
途端に、笑顔を維持していた頬の筋肉が痛む。 肩がずしりと重くなり、二時間睡眠の本当の疲労が、泥のように全身にまとわりついてきた。
ポケットからサプリメントの容器を取り出し、手のひらで転がす。
今日も、生き延びた。
誰にも気づかれず、誰の領域にも踏み込まず、完璧に「無難な大学生」を演じきることができた。 その事実に安堵すると同時に、底知れぬ虚しさが胸を満たす。
大人のライセンス。 大人として歩み続ける自由と資格。
そんなものは、自分にとっては何の意味も持たないプラスチックの破片でしかなかった。 凪が守りたいのは、ただこの、すり切れそうな「偽りの日常」だけだ。
夕日に照らされた自分の影が、地面に長く伸びているのを見つめながら、凪はトボトボと歩き出す。
その影が、まるで昨夜の悪夢に現れた「黒い影」のように見えて、凪は慌てて視線を空へと上げた。
澄んだ春の夜空が、ゆっくりと帳を降ろそうとしていた。
今夜もまた、あの醒めない夜がやってくる。 その恐怖に身を震わせながら、凪はただ、自分の足元だけを見つめて歩き続けた。
第2話をお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、凪が大学でいかにして「完璧に無難な大学生」を演じているかを描きました。
講義で座る席のポジション取り(目立たず、かつ逃げやすい場所)や、友人からの飲み会の断り方など、表面上はごく普通の学生に見えても、その裏でどれほど神経をすり減らしているのか……彼の抱えるギリギリの疲労感が伝わっていれば嬉しいです。
【お知らせ】
今後の展開を練っていたところ、色々と話に矛盾が生じる可能性が出てきたため、公開済みの第1話を少しだけ書き換えさせていただきました! 大筋のストーリーに変更はありませんので、すでに1話を読んでくださった方もそのままお楽しみいただけます。
また、今後の後書きについてですが、毎話ごとに入れると物語の没入感やテンポを崩してしまうかもしれないため、今後は【各章の最後の話】にのみ後書きを入れる形にしようと思います。
(次回の後書きは、第1章の終わりの予定です!)
引き続き、凪の危うい日常がどのように崩れていくのか、ぜひお付き合いください。
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それでは、また第1章の最後でお会いしましょう!




