第一話「醒めない夢の残響」
――また、この夢だ。
視界を埋め尽くすのは、ひたすらに黒く、粘り気のある泥のような暗闇だった。
上下の感覚すらない無明の世界で、耳元を鋭い風の音が通り抜けていく。いや、それは風の音ではなかった。何かが空気を切り裂いて「落ちていく」音だ。
肺に酸素が入ってこない。喉の奥がカラカラに乾き、鉄を舐めたような血の味が広がる。
動かない手足を必死にもがかせ、暗闇の先へと手を伸ばす。そこには「誰か」の小さな背中があるはずなのだ。掴まなければならない。引き戻さなければならない。そうしなければ、取り返しのつかないことになってしまう。
けれど、指先は無情にも空を切る。
その瞬間、ノイズ混じりの「声」が脳内に直接響き渡った。
『――人殺し』
ビクリと、全身の筋肉が硬直する。
声の主は分からない。男とも女ともつかない、酷く歪んでひび割れた声。だというのに、そのイントネーションや息継ぎの癖には、どこか酷く馴染みがあるような、おぞましい錯覚を覚える。
『なぜ、見殺しにした?』
「違う……! 俺は、助けようと……ッ!」
『お前が殺した。お前が奪った。お前が、弱いから』
やめてくれ。
耳を塞ごうとしても、声は頭蓋骨の内側から反響して逃げ場を与えない。
ノイズまみれの非難の声が、無数の手となって首に絡みついてくる。息ができない。気管が塞がれ、心臓が肋骨を突き破りそうなほどに激しく脈打ち始める。
『お前だけが、のうのうと「普通」に生きるのか?』
暗闇の底へと、意識が引きずり込まれていく。
落ちる。落ちる。落ちる――。
「――っ、はぁ、ぁッ……!」
弾かれたように、飛鳥馬凪はベッドの上で上体を起こした。
春先の冷え込む夜明け前だというのに、着ていたグレーのスウェットは絞れるほどに冷や汗を吸い込み、肌にねっとりと張り付いている。
「はぁッ、はぁ、は、ぁ……」
暗いワンルームの部屋の中に、凪自身の荒々しい呼吸音だけが響く。
過呼吸の一歩手前だった。ひゅう、ひゅうと喉が鳴り、視界がチカチカと明滅している。胸の中心を鷲掴みにされているような激しい動悸に襲われながら、凪は震える右手を伸ばし、ベッドサイドの小さなテーブルを乱暴に手探りした。
カチャリ、とプラスチックの容器が鳴る。
手にしたのは、ドラッグストアでよく見かける市販のビタミン剤のボトルだ。凪は震える指で不器用なほど急いでキャップを捻り開け、中から数錠の白い錠剤を取り出した。
それはビタミン剤などではない。重度の不眠とパニック症状を抑えるために処方された、強力な精神安定剤だ。他人に見られた時のために、わざわざサプリメントの容器に移し替えて偽装している。
凪は水すら用意する余裕もなく、掌の上の錠剤をそのまま口の中に放り込み、無理やり喉の奥へと嚥下した。
苦味が舌の根に広がるが、今の凪にとってはその苦味すらも「現実」に繋ぎ止めてくれる錨のように思えた。
膝を抱え、ベッドの隅にうずくまる。
薬が効いてくるまでの数十分間、凪はただひたすらに耐え続けるしかなかった。窓の外から微かに聞こえる深夜のトラックの走行音、冷蔵庫の低いモーター音。それらの「日常」の音が、凪の狂いそうな精神を少しずつ現実に引き戻していく。
やがて、乱高下していた心拍数が徐々に落ち着きを取り戻し、過呼吸気味だった呼吸も浅く静かなものへと変わっていった。
凪は力なく壁に後頭部を預け、デジタル時計の赤い文字盤に目を向ける。
『03:14』
昨夜、布団に入ったのは午前一時を回ってからだった。つまり、二時間も眠れていない。
だが、もう一度目を閉じる気には到底なれなかった。瞼の裏には、まだあの真っ黒な空間と、冷たい重力の感覚がへばりついている。目を閉じれば、再びあの影が凪を断罪しにやってくる。
「……起きるか」
乾いた声が、誰もいない部屋に落ちた。
凪の住むアパートは、閑静な住宅街にある木造アパートの1階だ。家賃や立地の問題ではない。凪は、2階以上の部屋には絶対に住めない。エレベーターがあるようなマンションなどもってのほかだ。
大地と地続きの、最も低い場所。そこが今の凪にとって、唯一呼吸が許される空間だった。
重い身体を引きずるようにしてベッドから這い出し、狭いユニットバスへと向かう。
洗面台の蛍光灯のスイッチを入れると、無機質な白い光が鏡を照らし出した。
そこに映っていたのは、ひどく憔悴しきった一人の青年の顔だった。
目の下には濃い隈が張り付き、肌は血の気を失って青白い。焦点の定まらない瞳は濁り、およそ二十一歳の大学生とは思えないほど、生気が完全に抜け落ちていた。
これが、飛鳥馬凪の「真実の姿」だ。毎夜の悪夢に削られ、罪悪感という名の毒に内側から蝕まれ続けている、ただの壊れた人間。
蛇口をひねり、冷たい水を両手で掬って何度も顔に叩きつける。
バシャ、バシャという水音が、耳の奥にこびりついたノイズを洗い流してくれることを祈りながら。
タオルで顔を拭い、凪は再び鏡と向き合った。
ここからが、彼にとって最も重要な朝の儀式だった。
「……よし」
小さく息を吐き、表情筋に意識を集中させる。
まず、落ち窪んだように見える目元に力を入れ、少しだけ見開く。次に、強張った頬の筋肉を意識的に緩め、口角を左右均等に、2ミリだけ上に引き上げる。
冷たく濁っていた瞳に、柔らかな光を宿すように「意志」を込める。
数秒前まで鏡の中にいた「壊れた男」は、一瞬にして姿を消した。
代わりにそこに立っていたのは、人当たりが良く、成績優秀で、誰とでも適度に盛り上がれる「完璧に無難な大学生」――飛鳥馬凪だった。
完璧だ。どこからどう見ても、ごく普通の、幸せな日常を生きる青年だ。
鏡の中の作られた笑顔を見つめながら、凪は心の中で冷たく自分に言い聞かせる。
――普通でいなければならない。
――絶対に、普通を演じきらなければならない。
もしも自分が異常だと認めてしまったら。毎夜悪夢にうなされ、薬なしでは呼吸もままならないほど壊れていると認めてしまったら。
それはすなわち、自分が「あの子を救えなかった無能な人間」であり、その罪の重さに耐えきれずに壊れてしまった「哀れな加害者」であると、正面から認めることになってしまうからだ。
凪が「普通」である限り、あの子の死は、ただの「過去の悲しい出来事」として封印しておける。
誰にも心の奥底を見せず、誰とも深く関わらず、ただ表面上だけ笑顔を振りまいて生きていく。それが、あの日ヒーローになれなかった飛鳥馬凪に課せられた、唯一の生存戦略だった。
「さて……大学、行くか」
鏡の中の『飛鳥馬凪』が、爽やかな声でそう言った。
凪は洗面台を離れ、ハンガーに掛かっていたパリッとしたシャツに袖を通す。心の奥底で血を流し続けている本当の自分に、何重にも鍵をかけて奥深くへと沈めながら。
今日もまた、何事もない、偽りの「完璧な日常」が始まろうとしていた。
この空っぽの平穏が、いつか完全に崩れ去る日が来るなどと、今の凪は想像すらしていなかった。
はじめまして、著者のAISHIです。
本作『君の面影を重ねて』の第1話をお読みいただき、本当にありがとうございます!
一応「恋愛もの」として書き始めている本作ですが……読んでいただいた通り、第1話から主人公の凪が精神的に限界ギリギリです(笑)。この先も、終始こんな感じで暗くて重い展開が続くかもしれません。
今回は凪が抱える息苦しさや絶望感をリアルに伝えたくて、悪夢や過呼吸のシーンの描写には特にこだわって書いてみました。
なお、本作は【全50話】で完結する予定で執筆を進めています。
凪たちがどのような結末に辿り着くのか、最後まで一緒に見届けていただけると嬉しいです。
さて、次回は凪が大学でどのように「完璧に無難な大学生」を演じているのか、彼がしがみつく偽りの日常が描かれます。必死に仮面を被る凪ですが、その平穏はいつまで続くのか……?
少しでも「続きが気になる!」「最後まで読んでみたい」と思っていただけましたら、ページ下部にある【☆マーク】からの評価や、ブックマークへのご登録をしていただけると、今後の執筆の大きな励みになります!
それでは、次回もよろしくお願いいたします。




