第4話「不眠の足音」
深夜二時。世界が完全に寝静まった時間、凪のアパートの部屋は、ただ時計の秒針が刻む規則正しい音だけが支配していた。
カチ、カチ、カチ。
その小さなプラスチックの摩擦音が、まるで凪の残された寿命を削り取っていくカウントダウンのように耳障りに響く。
昼間、5号館の階段で発作を起こしてから、凪は這うようにしてアパートへ戻り、カーテンを閉め切った暗闇の中でただ横になっていた。
身体は泥のように重い。指先一つ動かすのにも億劫なほどの疲労が、全身の筋肉に鉛のように溜まっている。目元は熱く、脳の奥は慢性的な睡眠不足によって、じりじりと焼けるような痛みを訴えていた。
今すぐにでも意識を失うように眠れるはずだった。いや、肉体はそれを切実に求めていた。
しかし、凪の精神がそれを許さない。
布団の中で瞼を閉じようとするたびに、脳裏に鮮烈なフラッシュバックが沸き起こるのだ。あの古いレンガ造りの校舎。4階の踊り場から見上げた、5階へと続く白い光に満ちた階段。そして、その光の向こう側にぽつねんと立つ、制服姿の「あの子」の、頼りなげな後ろ姿――。
「……っ」
凪は跳ね起きるようにして目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたアパートの天井だ。それでも、心臓の鼓動は一気に跳ね上がり、嫌な冷や汗が首筋を伝って流れ落ちる。
まただ。目を閉じれば、そこには必ず「過去」が待ち受けている。夢の世界の入り口には、あのノイズまみれの影が、凪の首を絞めるために両手を広げて待っているのだ。
眠るのが、怖い。
どれだけ身体が悲鳴を上げていても、意識を失うことそのものが、凪にとっては死の淵に足を踏み入れるような恐怖と同義だった。
「はぁ……、はぁ……」
荒い呼吸を落ち着かせようと、凪はベッドの縁に腰掛け、頭を深く抱え込んだ。
部屋の空気があまりにも希薄に感じられ、胸が詰まる。このまま四角いコンクリートの箱の中に閉じ込められていたら、本当に息が止まってしまうかもしれない。そんな強迫観念に突き動かされるようにして、凪はスウェットの上に薄手のパーカーを羽織り、財布とスマートフォン、そして例のボトルをポケットに突っ込んで部屋を飛び出した。
外の空気は、驚くほど冷たかった。
昼間の春の陽気が嘘のように、夜の風は冬の残り香を孕んで凪の頬を刺す。しかし、その痛みを伴う冷たさが、パニックに傾きかけていた凪の脳をいくらか冷静に引き戻してくれた。
街灯がまばらに続く夜道を、凪はあてもなく歩いた。
目指す場所は一つしかなかった。この時間でも、煌々と無機質な光を放ち、自分を「現実の世界」に留めてくれる場所。
徒歩数分の場所にある、大手チェーンのコンビニエンスストア。
自動ドアがウィーンと開くと、聞き慣れたチャイムの音と共に、人工的な明るい光が凪を迎え入れた。
店内には、凪の他に客はいなかった。レジの奥で、若い外国人の店員が退屈そうにスマートフォンを眺めている。その、徹底的に他人に無関心な空間が、今の凪にとっては、どんなカウンセリングルームよりも居心地が良かった。ここなら、誰も自分を詮索しない。自分がどれほどやつれていようが、どんな闇を抱えていようが、ただの「深夜の客」として処理してもらえる。
凪は目的もなく店内を一周し、チルド飲料のコーナーから、最も安価なミネラルウォーターのペットボトルを一本取った。
レジで会計を済ませ、店を出る。
すぐには部屋に戻る気になれず、コンビニの駐車場の一角にある、街灯の光が届かないベンチに腰を下ろした。
ポケットから、市販のビタミン剤のボトルを取り出す。
カチャカチャと音がする。しかし、その音は昼間よりも明らかに軽かった。
嫌な予感がして、凪はキャップを開け、街灯の微かな光を頼りにボトルの中を覗き込んだ。
「……嘘だろ」
残っていたのは、小さな白い錠剤が、たったの一錠だけだった。
昼間の発作の際、取り乱して地面にぶちまけてしまったのが響いていた。本来なら、あと一週間は持たせるはずだった予備の安定剤が、これですべて底を突いたことになる。
胃の奥が、きりきりと痛む。
この一錠を飲み干してしまえば、明日からの自分はどうなるのだろうか。もしまた大学で教室の変更があったら。もし、誰かに過去のことを尋ねられたら。薬という絶対的な防壁を失った自分は、一瞬にしてあの絶望の泥濘に沈んでしまうのではないか。
激しい不安が波のように押し寄せ、凪の手のひらは再び湿った汗で覆われた。
今すぐにでもその最後の一錠を口に放り込み、不安を麻痺させてしまいたかった。だが、これを飲んでしまえば、本当に「ゼロ」になってしまう。
凪は震える指先で、最後の一錠をボトルから取り出した。
街灯の青白い光に照らされたその化学物質の塊は、まるで自分の命を繋ぎ止める細い糸のようだった。こんなものに依存しなければ、普通に息をすることすらできない。二十歳にもなって、地元の友人たちが前を向いて歩んでいる中で、自分だけが過去の遺霊に怯え、薬の数に一喜一憂している。
「惨めだな……」
自嘲の言葉が、冷たい夜気の中に消えていく。
凪は購入したばかりのミネラルウォーターのキャップを開け、覚悟を決めるように最後の一錠を舌の上に載せた。
冷たい水で一気に喉の奥へと流し込む。
しばらくすると、胃の腑からじわじわと温かい化学的な感覚が広がり、脳の過敏な神経を強引にシャットダウンしていくのが分かった。心臓のバクバクとした嫌な脈動が、ゆっくりと、しかし確実に遠のいていく。
薬は効いた。これで、数時間は肉体的な平穏が保たれる。
しかし、それは単なる一時しのぎに過ぎないことを、凪は誰よりもよく知っていた。薬は症状を抑えてくれるだけで、凪の心に深く突き刺さった「罪悪感」という名の楔を抜いてくれるわけではないのだ。
空になったサプリメントのボトルを、凪は強く握りつぶした。プラスチックがメキメキと悲鳴を上げる。
どれだけ肉体を痛めつけ、どれだけ精神を摩耗させても、目を閉じればあの黒い影が待っている。
『お前だけが、のうのうと「普通」に生きるのか?』
耳の奥で、幻聴のようにあの声がリフレインする。
「生きなきゃ、いけないんだ……」
凪は、誰に言い聞かせるでもなく、小さく呟いた。
「俺が異常になったら……あの子の死が、本物になっちゃうだろ……」
自分が「普通」の大学生として、何事もないように日々を過ごすこと。それだけが、あの子の選択を、自分の無能さを、世間から隠蔽するための唯一の方法だった。自分が壊れてしまえば、あの日のすべてが「悲劇」として完成してしまう。それだけは、どうしても許せなかった。
凪は立ち上がり、空のボトルをコンビニのゴミ箱に放り込んだ。
明日、また心療内科に行って、新しい処方箋を貰わなければならない。そのためには、また医者の前で「少し眠れないだけです」と、完璧な嘘の笑顔を作らなければならない。
アパートへの帰り道、東の空が、微かに紫がかった灰色に染まり始めていた。
新しい一日が始まる。また、あの息の詰まるような「擬態の日常」がやってくる。
限界まで磨耗した心身を引きずりながら、凪は一歩一歩、自分の部屋へと歩みを進めた。その背中に、夜明け前の冷たい風が、容赦なく吹き付けていた。
第4話をお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、パニック発作の余波で一睡もできず、深夜の街を彷徨う凪の姿を描きました。頼みの綱だった薬が「最後の一錠」になってしまうという絶望感。彼にとっての「普通を演じる日常」が、いかにギリギリの綱渡りで成り立っているか、その息苦しさが少しでも伝わっていれば嬉しいです。
ところで、本作のタイトルは『君の面影を重ねて』ですが、お気づきの通り、4話の時点ではまだその要素が一切出てきていません。
「誰の面影」を、「誰に重ねる」のか……。
薬という唯一の防壁を失ってしまった凪ですが、次回、そんな限界状態の彼に日常を大きく揺るがす「思いがけない出来事」が降りかかり、いよいよタイトルの意味が動き始めます。
凪の危うい足取りを、引き続き見守っていただけると幸いです。
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それでは、次回もよろしくお願いいたします。




