第2話 悪夢の始まり
翌朝、校門をくぐり玄関から1年A組の教室に向かうまでの間。
今までとは明らかに空気の重さが違っていた。
いつもであれば、校舎の奥へと続く廊下の先にある体育館からは朝練をしているバスケ部のシューズが擦れる音。
「ねぇ、今日のテストさ…」
「お願い! 宿題見せて!」
学生同士の和やかな会話が折り重なって作られる和やかな雰囲気が、学校中を包み込んでいたというのに……
今朝はあちこちでスマホを覗き込み、ヒソヒソと笑い声や耳打ちが飛び交っている。
昨夜の掲示板の書き込みは、僕が思う以上に早く、深く、この学校全体に広まっていたのだ。
――僕のことを指しているとは限らない……
そう信じていたかった。
それなのに、A組の教室の後ろのドアに手をかけ、ガラ……
ドアを開けると、女子生徒達の視線が僕に集中する。
――え、何? 僕何かした?
まるで針のむしろに座らされているような感覚だ。
下を向いて自分の席へと向かう僕の背中に、無責任な好奇の視線が突き刺さる。
そんな状況下で、教室の前方にたむろしていたグループの一人が声を上げた。
「蓮夜! これ書いたの、お前だろ?」
「あぁ? なんのことだよ」
かたまりの中心で椅子に座り、スマホをいじっていた蓮夜がかったるそうに、質問を否定するような言葉を返す。
学校中は誰を指しているのかわからず、ヒソヒソ話をする程度だが、このクラスは違った。
誰が悠一を嫌っているか、誰があんな姑息で卑劣な言葉を吐くか。
クラスメイトはその答えをよーく熟知していた。
現に……
「だってお前、いつも神本のことウザいだなんだって因縁つけてるだろ?」
否定とも取れる返事を聞いてなお、納得するどころか、さらに真相を探るような質問を投げかける始末。
そして、当の本人はというと……
「はっ。少しは俺の言葉を信じろっての」
鼻で笑ったかと思うと、小ばかにしたような笑みを浮かべながら顔を上げていた。
「だけどさ、あの書き込みの続きに文芸部の部員しか知らないような話が混ざってたし、1年A組のクラス事情だって……」
反論を聞いた蓮夜は、そのまま椅子をガタンと鳴らして立ち上がる。
そのまま、僕のほうをチラリとも見ず、彼を囲んでいる取り巻きを睨みつけ、信じられない言葉を言い放った。
「……確かにお前らが言う通り、あれを書いたのは俺だ。だけどよ、『あいつ』って書いただけで、誰の名前も出してねぇ。仮に神本が責めきたとしても、それは神本の自意識過剰じゃねーの?」
ここで僕の名前を出してくる。
これが蓮夜の本音であり、誰に対して宛てたメッセージなのか嫌でも理解できてしまう。
「それとも何か? あいつは自分が下手くそだって自覚があるのか? 俺は独り言を呟いただけだ。その言葉で傷つくやつがいるなら、そいつが勝手に自分に当てはめただけってことだろうが!」
蓮夜の言い分は、暴力的なまでに身勝手なものだった。
だけど、匿名掲示板という盾を理解しつくしている彼には、罪悪感の欠片も見当たらない。
――クソ……
言いたいことは山ほどあるが、僕には簡単に相手を傷つけることを言えない理由がある。
喉から出かかった言葉をグッと飲み込み、その悔しさを拳を握りしめ、自分の机に視線を落とすことしかできなかった……
しかし、その日の放課後。
僕や蓮夜とは全く関係ない場所から、新たな火種がくすぶり始めていた。
ネット掲示板にはいくつかのカテゴリーが存在している。
その中の『雑談スレ』と分類された場所で、昨夜の蓮夜の書き込みに同調するような話題が上がってしまった。
「昨日の書き込み見たか? 会誌読んだけど、あいつの小説はマジでゴミだな」
「『才能ないからさっさとやめちまえ!』ってマジ最高っ」
「この世から消えてくんねぇかなw」
図書室へと向かう足が止まり、スマホを持つ手に力が入る。
中には『ルール違反だ』と窘める声もチラホラと上がっていたものの……
僕をとことん貶めてやろうという悪意は止まらない。
――ふざけんな。こっちは……言いたいことも言えずに必死に抑え込んでいるのに!
喉奥に現れた存在しない熱い何かを叫び出したい。
その衝動を噛み殺した、その瞬間だった。
ガツッ!!ガシャァンッ!
鈍い音と凄まじい衝撃音。
静寂からの……
「キャー!!」
「誰か先生呼んで!」
「早く救急車呼べよ!」
悲鳴が廊下を伝って別棟まで響き渡り、生徒の悲鳴や怒号がこだました。
――物が落ちて、誰かが少しだけ怪我をしただけ……
また、大袈裟に騒いでパニックになっている。
僕は怪我をしたかもしれない生徒の心配より、自分のことで頭がいっぱいだった。
しかし、クールで声を荒げないことで知られている教師の……
「藤坂! おい、聞こえるか!? 誰でもいい。急いで職員室に知らせろ!」
緊迫した怒鳴り声を聞いて、深刻な状態であることが窺い知れた。
――藤坂って蓮夜の取り巻きか?
野次馬のようなことはしたくなかったが、クラスメイトの苗字だと思うと、自然と足が騒がしい方へと歩き出していく。
「藤坂! おい、落ち着け!」
「……あ、がっ……あぁぁぁあ!」
のたうち回るたびに、藤坂の頭から赤い液体が噴き出す。
――来なければよかった……
現場は惨憺たるものだった。
床にぶちまけられた赤。
へたり込む女子生徒の喉を鳴らすような悲鳴。
失神している蓮夜の取り巻き――真室を誰かが揺さぶっている。
阿鼻叫喚のような光景とは、このことを指すのだろう。
そして、藤坂がこうなった原因と推測される蛍光灯……
廊下の天井に、頑丈な金具などで固定されていたはずのそれが、彼が真下を通った際に落下したのだ。
藤坂を助けようとする教師達のワイシャツやブラウスが真っ赤に染まり、藤坂はピクピクと痙攣し始める。
「なんで藤坂が……」
いつの間にか、僕の後ろに蓮夜がいた。
――何分経ったかわからない……
この惨状から目をそらしたいのに、体がまるでいうことを聞かない……
救急車のサイレンが廊下の窓の外から聞こえ、だんだん音が大きくなる。
僕のすぐ横を通り過ぎた教師や、懸命に助けるようとする行動がスローモーションのように動いていた。
放課後になり、教室を出ようとした僕に向けて放たれた藤坂の罵声。
「マジあいつウザ。いっぺん頭どついてやろうか?」
――偶然だ。これはただの事故だ……
そう自分に言い聞かせようとしたが、脳裏に祖母の言葉が蘇る。
「悠一、お前は神本家の子だ」
――気持ち悪い……
神本家でも、僕は大それた力を持っていないはずなのに……
掲示板に溢れた誹謗中傷……
『消えちまえ』と繰り返された呪いのような言葉。
それが、まるで意志を持っているかのように、この学校の空気を侵食し始めていた。




