四章 東京での調査
1
喫茶店から家に帰ると、車に乗り、辻内の居る大学へと向かう。
大学の受付で、辻内の居場所を確認し、校内を進む。土曜日だからか、校内は閑散としている。
日本文化研究室の、プレートが付いている扉を見つけた。軽くノックして、扉を開ける。
部屋の中はクーラーが効いていないらしく、暑い風が体に当たる。
中に入ると、部屋の中央にデスクが二つ。奥に大きなデスクが一つ。部屋の壁は隙間なく本棚が並んでいる。中央右のデスクに辻内が座っていた。
ボサボサの髪と、服装のくたびれ具合が、彼の懐事情を表している。学者で食っていける人間は、ほんの一部だ。それでも、知的好奇心に取り憑かれて、学者を目指す者は少なくない。
「どうだ、この大学は? しょぼいだろ」
「俺は大学に詳しくないから……元気そうだな」
「そっちもな。もっと太ってると思ったんだがな、良いもの食ってんだろ?」
「食が細いからな。それで、鬼子母神の事は聞かせてもらえるのか?」
「まぁ、一応、確認しといたよ。一般的な事だけだけどな」
私は手帳を、辻内のデスクの上に広げた。辻内は本を広げ、鬼子母神の事を話し始める。
「鬼子母神とは、インド神話に登場する悪鬼で、王舎城、これはインドの都市の名前だ、そこにいた夜叉神の娘だ。かつては、訶梨帝母と呼ばれていて、八大夜叉大将の一人、散支夜叉の妻だった」
聞き馴染みのない名前ばかりで、全く内容が頭に入ってこない。辻内が差し出した、本に書かれている、名前を書き写した。
「訶梨帝母は子供を五百人から、一万人、産んだとされている。これが、子宝の神として祀られている理由だ。しかし、それだけの子供を産むのには、沢山の栄養が必要で、その為に、人間の子供を捕らえて、食べていた。それを見かねた釈迦が、訶梨帝母を改心させるために、末の子を隠した。訶梨帝母は七日間、世界中を探したが、見つけれず、悲嘆に暮れた。そこで釈迦が、『お前は多くの子がいながら、一人を失うだけで、嘆き悲しむのか。たった一人の子を失う、親の苦しみはどれほどかわかるか』、と戒めた。訶梨帝母は過ちを悟り、三宝に帰依し、仏法の守護神となり、鬼子母神と名前を改めた」
「訶梨帝母の子供はどうなったんだ?」
「その子は末の子で、ビンガラという名前なんだが、帰依した後、釈迦が返した。ちなみに、鬼子母神はザクロを手に持っていて、これは、人肉の代わりとして、ザクロの実が渡された、とされているためだが、日本だけの俗説だ。インドでは吉祥果を持っている」
子供を隠された鬼子母神――吉永沙也加が行方不明になったのと、関係があるように思ってしまう。神話では子供を隠したのは釈迦で、母親が改心すれば、子供は帰ってきている。吉永沙也加が帰って来なかったのは、親が改心しなかったからか、それとも連れ去ったのが釈迦じゃなかったからか――。
犯人の事は現状では調べようがないが、吉永夫婦には会えるだろう。しかし、どう話を切り出せばいいか――。
鬼子母神と誘拐事件を繋げたかもしれないのが、隣町の祭りだ。それについても聞かなければいけない。
「K県出身の学者の事は分かったか?」
辻内はデスクに重ねられた、書類の中から、一冊を引き抜いて、私に渡した。
「教授に尋ねたら知っていたよ。簗田幸太郎、インド神話の研究者で、晩年は、子供に関する信仰の研究をしていたようだ。ただ、研究の途中で亡くなったらしい。亡くなってから二十年も過ぎていると、遺品も残ってないだろうな」
「祭りで鬼子母神の演目をやったらしい。どんな内容か分かるか?」
「うーん、そこまでは調べてない。ただ、創作の可能性があるぞ。鬼子母神に関する演舞は少ないからな」
学者が鬼子母神の研究をしたのが、亡くなる直前だけなら、祭りに協力した、学者の知人に聞くしかないな。町で確認するのが手っ取り早いか。
「鬼子母神の事はよく分かったよ。あと、もう一つ聞きたい事がある」
「何だ?」
辻内は椅子から立ち上がり、奥の部屋に置かれている、冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
デスクの上に、紙コップを二つ置き、ペットボトルに入っているお茶を入れた。
「鬼子、という言葉に関しては説明できるか?」
辻内は口元に持っていこうとした、コップを戻した。
「もちろん分かる。ただ……辛い言葉だな。鬼子は産まれたばかりの赤子を指していうんだ。そして、鬼子は殺されるんだ……」
「K県での鬼子は、どういった意味がある?」
「残念だが、K県の事は分からない。俺は京都の風習を調べた事があるが、そこにも鬼子の話が残っている。日本各地で鬼子の話があるんだ、K県に鬼子の話があっておかしくはないが、特別有名ではないな。地元のお年寄りに聞いた方がいいな」
伯母さんは特に聞いた事がないと言っていた。少なくとも小川村で有名な話ではないようだが、父にも聞いてみる必要があるだろうか――。
「一般的に、鬼子とは何を指すんだ?」
「そうだな……ハッキリ言うと、身体的に異常がある赤子の事だな。ただ、異常と言っても、障害とは限らない。体が大きいだけで、鬼子とされる場合もある。現代に産まれていたら、スポーツ選手として、活躍できただろうにな」
「鬼子と言われるからに、そういった伝承があるんだろう?」
「ああ、だがほとんどが見た目のことだ。歯が生えてるってのが定番だな。それ以外は、生まれたばかりなのに歩き回るとかかな」
「昔は栄養失調で、健康児が生まれる確率も、低かったと聞いたことがある」
「ああ、その上、医学と言えるほどのものは江戸時代になってから、それも地方までは、満足に広がりはしない。それに食料事情だってある。日本で最後の飢餓は、昭和八〜十年だ。今の日本を見れば、考えられんが、たった五十年前まで、飢餓が発生していたんだ。数百年も前の人たちにとって、障害のある子供に、食わせる米は無かった。赤子は将来の労働力、普通の赤子でないと困るんだ」
「鬼子の民話は、赤子を殺す大人と、子を失う親の心を守るための話か……」
「鬼子の話で特徴的なのが、鬼子が一般人に殺されることだろう。鬼が出てくる話ってのは、高名な武士、源頼光とか、坊さんが祓ったといったものだ。普通の人間でも鬼子を倒せる、これも赤子殺しの正当化に、必要な要素だったのかもな」
「だいたい分かったよ、ありがとう」
「……まぁ、なぜお前が鬼子の事を知りたいか知らないが、変な小細工より、真摯な言葉の方が大切だろうよ――」
辻内はコップのお茶を飲み始めた。彼から聞ける話はこれ以上は無いだろう。今聞いた話と、十九前の事件、そして伯父さんの見た、鬼子が関係しているかは、まだ分からない。だが、捜査を続ければ、この情報が役に立つかもしれない。
辻内は部屋の隅に置かれていた扇風機を引っ張て来て、回し始めた。
部屋に立ち込めた熱が、少し和らぐ。私もコップのお茶を飲んだ。
お茶を飲みながら辻内の最後の言葉が気にかかった。なにか思わせぶりな言い方だったが――。
「ぶふっ!! ごほごほ!!」
私は思わずお茶を吹き出してしまった。
「違うぞ辻内! これはある事件の参考に聞いてるんだ、俺に関係することではない!」
「ハハハハ!! そうか、そのようだな! まったく、俺たちの中で一番大人になったのはお前だと思っていたが……女に奥手なのは変わらんと見える。ハハハハ!」
私はハンカチで服に着いたお茶をふき取る。この後、部長の知人と会うのだ、シミにならないでくれよ。
昼食を辻内は焼肉屋に行きたがったが、この後、人と会うからと断り、寿司屋になった。辻内は本当に遠慮なく注文したので、高くついた。
私は「時間が無いので大学まで送れない」と言い、辻内と寿司屋で別れた。
辻内は、「昼飯一つで、何でも調べてやるからいつでも来いよ」と、別れに言葉を残した。
2
部長に伝えられた、住所に向かうと、豪邸にたどり着いた。
部長の知人、名前は久保利彦、流通業大手の幹部だ。婿入りらしく、奥方の父親は、政界の大物だ。
車から降り、インターホンを押す。名前を名乗ると、門が開いた。中に入るとそこには、広い洋風の庭が広がっている。ハリウッド映画で見るような光景だ。玄関の前には、スーツを着た若い男性が待ち構えている。彼の前で車を止め、降りると、彼は私の車を運転し、家の横の駐車スペースに、私の車を止めた。
「加賀さん、どうぞお入りください」
私は声の方を振り向くと、玄関から若い女性がこちらに手招きしていた。
服装は高級感があるが、ビジネスではなくフォーマルな感じだ。この家の家族だろうか。
私は彼女の前で頭を下げた。
「警視庁の加賀です」
頭を上げると、彼女はジッと私を見ている。服のシミに気付いたんだろうかと思ったが、彼女の顔からは気持ちが読み取れなかった。
「娘の邦子と申します。わざわざ足を運んでいただき、申し訳ございません」
彼女は頭を下げて、私を中に案内した。彼女は、客間のドアを閉める時も、私に視線を送って来た。まるで取り調べを行う警官のような、突き刺す視線だった。
客間に通され少し待つと、利彦がやってきた。
「どうも、久保利彦です」
彼は手を差し出しながら名乗った。
「警視庁の加賀です」
私は椅子から立ち上がり、彼の手を握って応えた。
「すいませんね、非番の日にご足労いただいて」
「いえ、公務員は市民に尽くすものですから」
ドアがノックされた。ドアを開けたのは邦子で、お盆にお茶の入ったガラスのコップを二つ乗せて持ってきた。
利彦はどこかで聞いた事のあるような、娘の自慢と愚痴を言った。邦子の反応も、ホームドラマで見たような既視感のあるものだった。私は口元に薄く笑みを作って、双方に相槌を打った。
彼女が部屋を出ると、利彦は真剣な顔に変わり、相談を始めた。
相談内容は大体が想像通りだった。社内で、ある社員の横領が発覚し、刑事事件になりそうだ。上司である自分に飛び火しないかと不安なようだ。
こういった時に無責任に「大丈夫だ」、と言ってはいけない。後から彼が逮捕されて、その時、私の名前が出たらただでは済まない。彼が沈みゆく泥船なら、私はそれに付き合う義理は無い。そもそも部長も、そう判断して、私にこの件を押し付けたのだろう。
私は会社の調査に協力して、嘘を付かないようにと助言した。無論、言う必要のないことは言わなくていいと付け加えて。
彼はそれを聞いて険しい顔をして黙り込んだ。出来ればこれでこの話が終わってほしい。これ以上、彼の話を聞かされるのはマズイ。もし、彼が犯罪行為をしているのなら、仕事で私が調べて、事実を確認し、逮捕したい。
ここで話を聞けば、部長にその話をしなくてはならず、嫌な顔をされる。そして、彼の捜査が始まれば、私は担当から外されるだろう。
長い沈黙の中、私はお茶を飲んだ。お茶は香りも味わいも、辻内が出してきたお茶とは比べ物にならないほど上等だが、この状況では美味しく感じない。
今回は相談相手が一人だからまだいい。前に大手広告企業の役員連中の相談に乗った時は、長々と責任の押し付け合いが始まり、解放さるまで五時間ほどかかった。
「うーん、まぁ、社内の者と相談してみるか……」
利彦は自分の中で覚悟を決めたのか、ボソリと呟いて、お茶を飲んだ。
「時に、君は独身のようだが、決まった相手はいるのか?」
「はぁ、仕事ばかりでそちらの方は……」
「分からないでもない。私も君の年齢位の頃は、仕事に明け暮れたものだったよ。しかし、結婚してからは少し落ち着いたよ」
「まぁ、それはそれで良かったのではないですか」
「うちの娘はもういい年なんだが、いい相手がいないようでね……どうだね、君?」
どうやら部長が私にこの話を持ってきたのは、こちらの話が本命だったらしい。
「私なんぞには勿体ないことです。それに娘さんはまだお若い、これからいい相手が見つかりますよ」
「……そうか、嫌だというのなら、無理強いしないが――」
「嫌だとかではなく、その……今は結婚に気持ちも行きませんので」
「いや、気持ちはわかるよ。私も婿入りの身だ、君の立場も分かっている。だが、婿入りしろという話じゃない、君は出世志向だと聞いたもので、その気があればと思って話をしたんだ」
「……正直言って、こんな名家の娘さんが、警官の嫁になる事はないとおもいますけど――」
「それが、本人が『政治家の息子は絶対に嫌だ」、と言ってるもので……」
この家に来てからの、邦子の私に対する態度は、「政治家の息子に嫁ぐよりは……」、といったものだったのか。彼女の私への視線に合点がいった。
「君の父親は、医療関係の器具を販売する会社に勤めてるらしいね」
「はい、技術者ではなく営業職なので、普通のサラリーマンです」
「娘にはそれがいいのだろう。あの子もこの家で幼い頃から政治を見てきたからな」
「しかし、容姿端麗ですし、お嫁に欲しいと声をかけられませんか?」
「ないこともないが……。親バカに聞こえるだろうが、長男が優秀でな。東大の経済学部を卒業後、銀行で働いている。義父も妻も長男にしか興味がない。娘はこの家に居心地の悪さを感じている、私の比ではないだろうが……」
利彦は枯れた笑いを漏らした。
「娘にはせめて納得のいく結婚を……幸せな家庭を作ってほしいものだ」
「尚更、警察官と結婚すべきではないでしょう。私など、仕事で数日家に帰らないことがよくありますから……」
「警察の仕事は大変だね。君はなぜ警察官になったんだね?」
「伯父が警察官だったので。ずっとK県の小川村という所の駐在所勤務でした」
「K県の小川村――確か、しばらく前に私の知り合いが引っ越したのもそんな名前だったな……」
「えっ!? もしかして、吉永悠介氏ではないですか?」
「ああ、そうだ。彼とは会社に同期入社だったんだ。君も知り合いかい?」
「いえ、伯母が昔、小川村に住んでいたと……吉永さんの子供が行方不明になったとか――」
「ああ、そうだったな。体調を崩した子供の為に、田舎の村に移り住んだのに……」
「今でも連絡を?」
「いや、その事があってからはない。私にとっては彼はライバルのような存在でな、いつも私の一歩先を彼が行っていたよ。彼は先進的な見方をするし、我が強いから、上司によく反発していた。彼が会社から独立した時は、内心ホッとしたよ。出世争いのライバルが減ったのと、もし、彼が自分の上司になったら、私は耐えられないだろうから」
利彦は煙草を取り出した。私にも勧めてきたが断った。利彦は煙草に火を付けた。
「彼の会社はあっという間に大きくなったよ、私には無い才覚があった。しかし、大きくなった会社もあっさり売ってしまった。彼は小川村に引っ越す前に、家族を連れて、この家に遊びに来たんだ。その時、会社を売ったことを尋ねると、『自分がしたいのは商売であって政治では無い』、と答えたよ。当時は何を青い事をと思った。会社が大きくなれば、当然受注する仕事も大きくなる。最後に行きつくのは国からの仕事だ。だが、今になって自分が政治に疲れ果てているのを感じると、彼はこうなることを嫌ってあの生き方を選択したのだと気付いたよ」
「子供が誘拐された時は連絡があったんですか?」
「子供が行方不明になってから一年ほどたって、彼らは東京に帰って来た。その時に電話をくれたが、私もどう言葉をかけていいか分からないし……それきりだな。最後に彼と会った時、私と違って、幸せな結婚生活を送っていたようだったんだがな――」
「……吉永氏の娘さんは、営利誘拐ではないかと言われてましたが、どう思われます?」
「不思議ではない。彼は現に金持ちだったし、それを隠してはいなかった。もっとも、その時から私の家の方がずっと金持ちだったがね。といっても、私の自由になる金は、この家の総資産の百分の一もないんだよ、ハハハ。そんな事情は、外からでは分からないことだよ」
「吉永さんに恨みを持つ人はいなかったのでしょうか?」
「彼の会社内の事は知らないし、女性関係も無いことは無いんじゃないか。彼の奥さんは私のとこと違って、浮気に寛容だろうし」
「吉永氏の結婚の経緯を知っていますか?」
「彼の趣味の釣りで知り合ったらしい。奥さんの仕事は料理人だったかな。結婚したのは、独立後だったから、結婚式には呼ばれてんだが、仕事が忙しくて断った。私の結婚式には呼べなかったよ、彼と揉めた上司も出席するからな」
意外なところで吉永家の話が聞けた。吉永夫婦の関係は傍目にはよさそうだ。悠介も娘の為に田舎に移り住むのを、嫌っていたわけではなかったようだ。吉永沙也加の行方不明に、吉永夫婦が関わっている可能性は低そうだ。
「しかし君は、『結婚に興味が無い』と、ハッキリ言うだけの事があるな」
「はぁ、すいません、変なことを聞きまして」
「事件の事となると目つきが変わる、刑事の血が騒いだかな? ハハハ」
我を忘れて事件に食い付いてしまった。これが問題になることは無いだろうが、自重しないといけないな――。
3
利彦に夕食を一緒にと誘われたが、丁重に断り、家を出た。邦子は玄関の外に出てきて見送ってくれた。ここに来た時より、彼女の表情は柔らかい。
翌日、朝食を取りに喫茶店へ向かう。
今日はモーニングBセットを注文した。Aセットとの違いは、サラダがポテトサラダに、スープはかぼちゃ、ゆで卵が目玉焼きに変わる。
モーニングセットができるのを待つ間、奈央が話しかけてきた。
「加賀さんは朝しか来ないらしいですね」
「仕事場は遠いし、家に帰るのは夜遅くだからね」
「ふーん。私、バーテンダーの仕事続けたくて。この店、夜はバーになったら、通ってくれます?」
「ええーと、マスターはなんて言ってるの?」
「加賀さんが応援してくれるなら、相談してみます」
なぜ私はそんな責任重大な意見を求められたのか――。この店は落ち着いた雰囲気だし、バーとしても違和感はない。だが、ここは繁華街じゃないから、客は多くは来ない無いだろう。採算は取れるのだろうか。
「お酒を揃えるのにもお金がかかるだろうし、よく考えた方がいいよ」
「そうですね。お父さんが死んでからにしようかな――」
カウンターの中から咳き込む音がした。マスターにはできるだけ長生きしてほしいものだ。
帰宅後、留守番電話を確認するも、急な予定は入らなかったので、吉永夫妻が参加しているボランティアの事務所に向かうことにした。
吉永家に直接向かうわけにはいかない、できれば事務所で会いたい。たとえ、今日、会えずとも、彼らがいつ活動しているかを確認出来るだけでも十分だ。
事務所は雑居ビルの一室で、近くに車を駐めるところが見つからず、少し離れたスーパーの駐車場に車を駐めた。
二階にあるボランティア事務所は、扉が開けっぱなしになっていて、入り口の上に〔東京の川を守る会〕、と書かれたプレートが貼られている。
一声かけて、中に入る。中央に大きなテーブルが一つ、壁側には長靴やタモが雑多に置かれている。壁には川の写真がいくつも飾られていた。
中央のテーブルで、鉛筆を走らせていた、眼鏡をかけた五十代の女性が、顔を上げてこちらを向いた。安っぽいオレンジ色のジャンパーを着ている。ここのユニフォームだろう。
「初めての方ですよね? ボランティア活動に参加希望ですか?」
「はい、どんな活動をしているか興味がありまして――私、加賀と申します」
「安西です。そうですか。今日は神田川の清掃をしています」
「それなら見学したいです」
「詳しい場所を場所をお教えします。それと――これ、よかったら」
彼女は自分が着ているジャンパーと同じ物を取り出してきた。
「ここのスタッフジャンパーなんです。購入していただければ、活動資金になりますので、よければ……」
「購入させていただきます」
私はジャンパーを羽織り、神田川に向かった。
目的地に到着すると、川岸にオレンジ色のジャンパーを着た人たちが見えた。
私は車のトランクを開け、スニーカーを取り出し、革靴と履き替えた。革靴で川の掃除はない。予備の靴を車に常備しておいてよかった。
川に降りて行くと、男性が一人近づいてきた。
「こんにちは。初めましてですよね?」
「はい。私、加賀と申します。川の保全に興味があって、こちらの活動の見学をさせていただきたいのですが、よろしいですか?」
「もちろん。私は代表の吉永悠介です。あそこにいるのが妻の昌子です」
都合よく吉永夫妻と会えた。
「今日は何時まで活動するんですか?」
「正午には終わります。夏は午前だけの活動にしてます」
私はゴミ袋を車に積み込むのを手伝った。
「助かりました。よければまた来てください」
「吉永さんは午後から予定がありますか?」
「いえ、特には」
「よければお話ししませんか、奥様も一緒に」
「では、一緒に昼食を食べましょう」
三人で昼食を食べながら、川の話を聞いた。二人が川の保全活動を始めて九年になるという。子供たちに安全な川遊びを教える活動もしているようだ。やはりこの活動には、自分の子供が川で死んだと、警察が判断した影響があるようだ。
デザートが運ばれてきて、昼食会もお開きが近くなった時、私は二人に警察官であることを名乗る決心を固めた。もし、二人が犯人なら、今の段階では、私が十九年前の事件の捜査をしている事を伏せるべきだろう。しかし、私は二人が犯人ではないと考えている。無論それは私の推理ではなく、伯父さんがそう考えなかったからだ。伯父さんは、捜査本部が解散した後も、事件を解決しようとしていた。そして、伯父さんは、事件の影を捉える事ができていたような気がする。もし、この二人が、伯父さんにとって容疑者なら、彼らの事がもっと日記に書かれていたはずだ。実際には、事件後の日記に、記述が増えたのは、子供たちのことだった。
【鬼子を見た】――私が追いかけている影はこの言葉だ。吉永夫妻ではない。
「実はお二人に聞いてもらいたい事があるのですが。私、芳賀辰男の甥で、警察官なんです」
二人の顔が固まった。なぜ警察官が正体を隠して近づいてきたのか、困惑しているようだ。
「……なぜ、私たちに会いに?」
「伯父は先月、亡くなりました。その遺品の日記に十九年前の事件の事が書かれていました。伯父は事件が未解決で終わったことに未練があったようです。私は伯父の供養のために、自分ができるだけの捜査をしたいと思っています。お二人に当時のお話を聞かせていただきたく、押しかけてきました」
二人は顔を見合わせた。
「今更十九年前の事を調べます、と言われても……」
「おっしゃる通り、今更調べても事件が解決する可能性は低いでしょう。無理強いはしません。もし、協力していただけるのなら、ということです」
私は頭を下げた。彼らの証言はできれば得ておきたい。私の推理が正しければ、今も健在な一般人の中で、まだ話を聞いていない事件の関係者――そして、嘘なく私の質問に答えるのは、彼らだけのはずだ。
悠介はどうするか悩んでいるようだった。昌子が自分の手を悠介の手に乗せた。悠介が彼女の顔を見ると彼女は頷いた。悠介は私を向いて言った。
「貴方が沙也加の事を探しているのであれば、私たちにできる事があるなら協力します」
「ありがとうございます。では、最初にお願いしたいのは、この事は誰にも話さないでください。管轄外の事件を捜査しているのが上司にバレると、処分されてしまいますから」
「大変なんですね。なぜそこまでして沙也加の事を探すのですか? 何か手掛かりが見つかったんですか?」
「事件後から時間が経って、見えてくるものもあります。伯父は十年前に警察を退職して、事件の捜査ができませんでした。私は今の状況から事件の全貌を見たいと思います」
二人は黙って私の顔を見た。少なくとも私が興味本位ではなく、本気でこの事件の捜査をしている、その熱意は感じたようだ。
「最初に聞きたいのは、事件後、警察に話していない、発見などはありましたか」
「ありません。当時の警察に知り得る事は全て話しました」
「たとえば、事件前に送っていた、沙也加さんからの手紙が届いたとか」
「いいえ、ありません。事件後、妻は東京の実家に帰りましたが、私は一年、あの家に住んでました。沙也加に関する物はなにも届きませんでした」
「村の人たちから直接渡された物はどうでしょう。たとえば……子供たちとか?」
「ありませんね。私は職場と家の行き来で、村の方と交流はほとんどありませんでしたし。特に、沙也加が行方不明になってからは、近づき難かったようで……。加賀さんだけが、定期的に家に訪ねて来られました」
「行方不明当時、沙也加さんはランドセルを背負ってませんでしたね。何か理由が?」
「沙也加は病弱だったので、教科書は家と学校と二冊買っていました」昌子が補足する。「学校から持ち帰る必要があるときは、袋に入れて家まで先生や、加賀さんが運んでくれました……村の人たちは本当に良くしてくれてたんですが――」
「行方不明後、伯父さんはどんな話しをしました?」
「沙也加がどこに遊びに行ってたとか、沙也加が行きそうな場所を聞いてきました」
「沙也加さんはどんな遊びをしてましたか」
「子供がやる普通の遊びです」
「何か具体的に、覚えているものが一つでもあれば、聞かせてください」
「……川で魚獲りとか――」
昌子は俯きながら答えた。やはりこの二人は、沙也加が川で死んだと思っているようだ。捜査に先入観はよくない。これは聞く側だけでなく、聞かれる側にも言えることだ。この先入観を持ったままでは、何を聞いても私が想像している、事件の核心には近づけない。
別の先入観を植え付ける必要があるな――。
4
「お二人にハッキリと言っておきますが、私は沙也加さんが事故ではなく、誰かに誘拐されたのだと思っています。伯父さんもそう考え、捜査していました。私はその遺志を引き継ぎます。無論、この捜査の結果、事故であることが証明されるかもしれません。たとえそうだとしても、私はこの件を誰かの犯罪だと考え、最後まで捜査します。お二人には、それを承知の上でご協力をお願いしたいのです」
悠介は前のめりになって言った。
「しかし、警察は捜索の結果、何も見つけれなかったんですよ。それに、車で誘拐するのも不可能との事でした」
「沙也加さんは行方不明時、帽子と日傘を持っていました。しかし、それらは発見されていません。もちろん警察は川の中も徹底的に調べました。もし、日傘を持った状態で、川に落ちたと仮定して、沙也加さんと日傘、その両方が、警察の捜査範囲外の下流まで流されたとは考えられません」伯母さんの話では、伯父さんも日傘がないのは変だと言っていた。
「では加賀さんは、犯人がどうやって誘拐したのだと、考えているのですか?」
「きっと何か見落としている事があるはずです。ですのでお二人には、沙也加さんは誘拐された、その前提で質問に答えてください」
「けどそれは……村の方が嘘をついてるってことですよね?」
「思い込みということもあります。それを見極めるには、行方不明前の沙也加さんの行動が重要なんです。沙也加さんの放課後以降の行動を、できるだけ詳しく話してください」
悠介は冷静に昔の事を思い出そうとしている。
「……そうですね、沙也加は村に引っ越す前は体調がすぐれず、学校を休みがちだったんです。それで、勉強も遅れていたんですが、村に来て体調が良くなったので、勉強の遅れを取り戻すために、放課後は学校に残って勉強をしてたようです」
「自習してたんでしょうか?」
「いいえ、先生と同級生に手伝ってもらってたようです」
「先生というのは長田琢真ですね?」
「ええ、そう言ってました」
「彼は警察に疑われてました。お二人はどう思いますか?」
二人は黙って考えている。昌子が自信なさげに答えた。
「……特に印象がないので――」
長田琢真――この事件の核心に近いはずの彼だが、どうにもその姿はおぼろげだ。誰しもが彼に特別な印象を持ってない。
「行方不明になった日は、商店と雑貨屋に寄っています。これはよくありましたか?」
「たまに……ただ、放課後の勉強が増えてきて、寄り道は減ったようでけど」
「最後に……これはとても失礼な質問ですが、沙也加さんの事で隠している事はありませんか? 特に……彼女の名誉を守るために話さなかった事とか――」
「それは……沙也加が何か問題を起こして、事件に巻き込まれたということですか?」
「当時、警察が事件を解決出来なかったのは、犯人の動機が特定できなかったからです。お二人には脅迫などはなかったわけで、だとすれば、犯人の目的は沙也加さんを誘拐する事で達成されているのです。ならば、沙也加さんが犯行の動機を作った可能性があります」
二人は私の推理を飲み込めずにいた。
「私たちはあの村に引っ越して半年です。沙也加がそれほど重大な事をしたとも思いませんが……」
「些細な事が犯罪の動機になることもあります。子供のいたずら程度の悪事……何か心当たりがありませんか?」
昌子がおずおずと答えた。
「ありません……あの子は、体調の事もあって、引っ込み思案でした。いつも、村の子供に手を引かれて、遊びに行ってました。あの子が、人に迷惑をかけたなんて――」昌子はテーブルのコップをじっと見ている。
悠介が続けて言った。
「刑事さん、私は沙也加のために小川村に引っ越しました。しかし、沙也加の体調が良くなると、新しい仕事にのめり込み、沙也加の事を見なくなってしまいました。なので、妻と違って沙也加の細かい変化までは、分かりません。ただ、これだけはハッキリ言えます。妻は隠し事をしていません。彼女とは二十年以上の付き合いですから、それだけは分かります」
悠介の言葉に昌子が鼻を啜った。今日はこれで終わりにした方が良さそうだ。この二人なら後日、協力してくれるだろう。
「ご協力ありがとうございました。連絡先を交換しておきましょう。たとえ些細な事でも、何か思い出したら電話してください」
私は席を立って伝票を手に取ったので、悠介が慌てて立ち上がった。その時、悠介の手にコップが当たり、床に落ちた。コップは割れ、中のコーヒーが私の靴とズボンの裾にかかった。
「ああ! すいません、服を汚してしまって」
「いえいえ、ズボンの裾ですから。この前、お茶を服にかけてしまって、シミにならないように急いで拭きましたよ」
支払いは悠介が済ませ、店を出た。
二人はとても恐縮していた。私は申し訳なさから、足早に立ち去ろうとした。
「刑事さん!」
私を呼び止めたのは昌子だった。
「本当に些細な事ですけど、思い出した事があります」
「何ですか?」
「沙也加が行方不明になる一、二週間前に、服にシミが付いていたんです。脇腹の辺りに、一センチほどの」
「シミですか? なんのシミでした?」
「一緒に遊んでいた同級生が、転んで鼻血を出したので拭いてあげた時に着いた、と言ってました」
「間違いなく血のシミだったんですか?」
「そのように見えました――」
「服に血が付いていたのは、その一度だけですか?」
「ええ、それは間違いありません。あの白いワンピースは沙也加のお気に入りで、汚さないように気を付けてましたから」
「そうですか……また、何か思い出したら電話してください」
私の車に向かう足取りは軽かった。
収穫はあった。次に矢印を向けるのは学校だ。放課後、吉永沙也加は学校で本当に勉強していたのだろうか。
それが、一度だけ服に付いていた血のシミと結びつけば、動機の解明につながるかもしれない――。
どうしてみんなあんなに早く動けるんだろう。授業が終わると教室から最後に出るのはいつも僕だ。すでに校庭で進平くんがどの遊びをやるか考えているだろう。
深く沈むソファーと違って座る人に何の気遣いもない硬い四角い足の木の椅子を名残惜しむようにゆっくりと腰が上がる。なぜこんなひどい椅子から離れるのを体は拒むようにゆっくりなのだろうか? これでは僕が柔らかいソファーから立ち上がる間に進平くんは給食を食べ終えてしまうだろう。
廊下を速足で歩きながら、僕は下駄箱に向かう。その途中で沙也加ちゃんを見かけた、授業では使わない扉の先に入っていく。先生に呼ばれたのだろうか? それともトイレと間違えたのかな。
今度こっそり聞いてみよう。もしトイレと間違えたのなら恥ずかしいから誰にも知られたくないだろうし。
沙也加ちゃんが転校してきてから三ヶ月たったが、彼女と僕はまだ本当の友達じゃない。他の五年生たちとは違って沙也加ちゃんは僕にまだ遠慮を感じる。
「友達に遠慮はいらない、はっきりと言えばいい」そう言ったのは由美ちゃんだった。その日、公園で進平くんとヒーローごっこをしていたけど、ずっと進平くんがヒーロー、僕は怪獣だった。砂場で和歌子ちゃんと遊んでいた由美ちゃんが僕の前に来てそう言った。
「そうよ、進平は自分勝手なんだから言ってやりなよ」
和歌子ちゃんが砂場から大声で加勢する。
「なんだよ……楽しいじゃねえか。何が不満なんだ?」
「……僕もヒーローやりたい――」
「なんだ、そう言えよ。お前怪獣のフィギアばっか持ってるから怪獣が好きなんだと思ってたよ」
「それは、だって、進平くんがヒーロのフィギュアだけを集めてるから……怪獣が無いと面白くないだろうと思って……」
「分かったよ、次はお前がヒーローで俺が怪獣。和歌子が地球防衛軍な」
「ちょっと、なんで私もやるのよ!」
下駄箱で上履きを脱ぎ、靴をはく。今度は僕が沙也加ちゃんに「友達に遠慮はいらない」って言ってあげないとね。
校庭に出ると進平はドッジボール、和歌子ちゃんはサッカーボールを持って待っていた。




