三章 日常への帰り道
1
小川村小学校の前に駐車していた、車に戻ったのは、午前十時半だった。今から東京に向かわないと、家に帰るのが夜中になるな――。
車のエンジンをかけると、エアコンを付け、冷風を出した。早朝とはいえ、この時期に歩き回ったのだ、体は熱を帯びている。
車は学校から、橋を渡って、隣町への道へと進む。この道は、昨日、村に着き、親族を葬儀場に送り、帰ってきたので、何度も通った道だ。だが、今はこの道を見る目が違う。当時の警察が本ボシと睨んだ、長田琢真が車で通った道だ。
村から出ると、山道だ。この山道沿いには、建物が一つもない。山に入るためのわき道がいくつかあるが、どれも車が通れる道幅ではないのが、車の中からでも分かる。
山道を下ると、すぐに隣町が現れる。
(公民館に寄ってみようか。成果があるとは思わないが、東京に帰る前に、できることはやっておきたい)
道路沿いの和菓子屋の前で車を駐め、中に入った。葬式とはいえ休暇を取っている。手土産は不要かもしれないが、一応買って帰ろう。
「いらっしゃいませ」
和服を着た中年の女性が、商品ケースの裏から、笑顔で迎えてくれた。
「この煎餅と、こっちの饅頭をお願いします」
「はい、お包みしましょうか?」
「お願いします。ところで、公民館にはどの辺りにあるか分かりますか?」
「この道を少し行くと、郵便局があるので、そこを右に曲がって少し進み、右側にある、青い建物が公民館です」
「どうもありがとうございます」
言われた通りに車を走らせると、青い建物の前にたどり着いた。看板には「公民館」と書かれていた。
敷地内に入り、駐車場に車を駐めた。寄り道の時間を除くと、学校からここまで、だいたい三十分。道順を覚え、車を飛ばしても二十五分をきることは無いだろう。十九年前から、道が変わっていないのなら、当時の警察の検証通りか。
車から出て、公民館を仰ぎ見た。とりあえず中に入ってみるか。ただ、十九年前の話しを聞くのは難しいだろう。
公民館の中に入ると、涼しい空気が流れている。入り口横には、町の祭りに関する、展示をしているようだ。私は展示物を一つ一つ確認した。
この町の神社は天照皇大神を祀る大神宮で、縁結びのご利益があるようだ。それにまつわる祭りの紹介が、写真や衣装を飾って説明されている。
小川村には小さな祠はあるが、神社や寺は無い。私が子供の頃から、この町の夏祭りにやって来ていたが――。
飾られている資料を全て確認したが、小川村に言及したものはなく、成果は得られなかった。元から期待はしていなかったので、落胆はない。
「熱心に見ていましたが、何か気になることがありますか?」
振り向くと、声をかけて来たのは、白髪の男性だった 。年齢は七十歳以上、髪は薄く、チェック柄の暗い赤色のシャツ、鶯色のズボンを着ている。
「実は先日、私の伯父が亡くなりましてね。伯父はずっと小川村に住んでいたのですが、ここに小川村の記録が無いかと足を運んだしだいでして――」
「なるほど、伯父さんの写真が無いかと見ていたんですね。私はここの館長でして、石坂です。伯父さんの名前を教えていただければ、こちらでお探しますが?」
「ご厚意に甘えて、伯父の名前は芳賀辰男といいます」
「ああ、芳賀さんの甥御さんでしたか。今年のお正月にお会いした時は、お元気そうでしたのに……急な事で残念でしたね」
「伯父と面識があったのですね?」
「ええ、小川村の方も、この公民館を利用する事が多いので。その際、芳賀さんが子供やお年寄りを、送迎することがよくありました」
「……最初に伯父と会ったのは何年前ですか?」
「えーと……私がここの館長になったのが十五年前ですから、その時に初めてお名前をお聞きしました」
十五年か――十五年でも十分過去の事だ。十九年という月日は、事件を調べるには、時間が経ち過ぎている――。
「この公民館では、貴方が一番の古株ですか?」
「いいえ、二十年以上ここで働いている、志村さんという方がいらっしゃいます」
「もしその方が、伯父と面識があるのでしたら、お話しをお聞きしたいのですが?」
「分かりました、呼んできます」
志村なる人物が、二十年以上前から、公民館に勤めているなら、十九年前の事件で、警察に協力しているかもしれない。
当時の警察の本ボシだった、長田琢真は事件当時、車でここに来ている。それに関する事を聞ければいいが――。
「お待たせしました、志村です」
志村氏は四十代と思われる女性で、丸い大きな眼鏡をかけ、暗い青のシャツにクリーム色のロングスカート、といった格好だった。
「お忙しいところわざわざすみません。私は芳賀辰男の甥でして、伯父の昔話を聞ければと思い、ここに足を運びました」
「芳賀さんの甥御さんでしたか。芳賀さんにはお世話になりましたが、葬儀には行けませんで、すみませんでした」
志村は白い封筒を、「お香典です」と言って渡してきたが、丁重に断った。
「伯父さんの昔話を聞かせていただいたら、それで結構ですので……伯父さんとはいつからの付き合いでしたか?」
「私がここに勤めてからなので、二十五年前からの知り合いですね。小川村には公民館が無いので、大きな集まりにはここを利用していました。芳賀さんは村の方を車で送迎していましたね。子供や、ご老人がちゃんと車に乗ったか確認するのを、私が担当していたので、芳賀さんとは話す機会がよくありました」
「ほぉ、子供たちは公民館をどのように利用していましたか?」
「そうですね……記憶に残っているのは、劇ですかね。今でも毎年、地域の子供たちがお年寄りに、演劇を披露するのですが、それは敬老の日が祝日に決まったからなんです。小川村の小学生も、廃校になるまで、毎年敬老の日に、ここで演劇を披露していました」
「敬老の日……確か、敬老の日が祝日になったのは――」
「昭和四十一年、今から十九年前のことです」
十九年前――偶然だが話しがしやすくなった。
「……小川村の子供も、十九年前から廃校になるまで、毎年ここで演劇をしていたのですね。内容はどんなものでしたか?」
「色々やってましたね。その年の流行りものとか……敬老の日が始まった、昭和四十一年は〔ドラキュラ〕でした。小道具も子供たちが作って、結構本格的でしたよ。ただ、事情があって、その年の劇に小川村の子供は、不参加になりましたけど」
彼女は十九年前の事件を覚えているようだ。だが、事件の事を聞くのは止めておこう。小川村の中ならともかく、この町で警視庁の私が、事件の捜査していると所轄に思われたら、問題になるかもしれない。
「伯父さんが小川村から子供を送迎していたのは、ここだけでしたか?」
「……そうね、あとは大神宮のお祭りの時かしら。昼に大神宮で演劇があるから、子供たちをそれまでに連れてきてました。私もお祭りの手伝いをしてましたから、芳賀さんが大神宮で見回りしているのをよく見ました……芳賀さんが死んでお祭りも寂しくなるわ――」
「子供たちは祭りを見るだけですか? 何かに参加したりはしませんでしたか?」
「子供神輿を担いでたりはしてたけど……ここに飾られている写真にも……ほら、これです」
志村は写真の一枚を指さした。そこには頭に白い鉢巻をして、法被を着た子供たちが、小さい神輿を担いでいた。この写真を見たところでは、どこでも見られる祭りで、特徴的なものはない。
「……節分とか、他の祭りには小川村の子供は、来なかったんですか?」
「節分なら小川村の小学校でやってたはずだけど……他の祭りに芳賀さんが子供を連れてきてたかは、覚えてませんね。町の祭りに芳賀さんが来ていたのは間違いないですけど」
「新年などにも子供を連れて来ていそうなものですけど、子供を連れてきたのを、大神宮のお祭りだけは覚えているのは、神輿を担ぐからですか?」
「それもありますけど、子供の情操教育として、神楽を行っていたので――」
「神楽はどんなものだったんですか?」
「有名なのは〔四天の舞〕かしら。四人の刀を持った役者が舞っていると、鬼が現れて戦うの」
鬼か――子供は神楽を見ていただけで、演じていたのは大人だ。【鬼子】とは無関係だろう。
「神楽には詳しくないですが、鬼や天狗などが出るものが多いのでしょうか?」
「神楽といっても、地域性があるから、ひとくくりにはできないわ」
「まぁ、そうでしょうね。この町での神楽はどうでしょうか?」
「鬼を扱った神楽なら、鬼子母神を扱った神楽をやっていたんですよ。この町の出身の学者さんが、鬼子母神の研究をしていたとかで――」
「どんな内容でしたか?」
「それが、私は見逃したんですよ。その学者さんが亡くなってしまって、結局その神楽は、一度しか演じられませんでした」
「いつ頃の事です?」
「二十年ほど前の事です」
二十年――子供たちはそれを見たのだろうか。もし見ていれば、【鬼子】と関係しているかもしれない。
「……当時の資料を見れば、神楽の内容は分かりますか?」
「ええっと、どうかしら……公民館に残っているかどうか――」
私は腕時計を見た、一一時三〇分、これ以上時間を使うと、東京に帰るのが夜中になる。資料探しにどれだけ時間がかかるか分からない、今日は諦めた方がいいだろう。
「いいお話を、聞かせていただいてる途中ですが、私は今日中に東京へ帰らなくてはいけませんので、お暇させていただきます。長々とお話を伺いまして、ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、東京までは遠いですから、お帰りにはお気をつけて」
「また機会があれば、寄らせていただきます。それでは――」
志村に頭を下げ、公民館を後にした。後ろ髪を引かれるが、明日からの仕事に影響が出てはいけない。今は安全運転で、東京に帰ることだけに集中した方がいいだろう。
2
明石を抜けて、阪神高速道路にたどり着いたのは、午後一時を過ぎた頃だった。昼飯はまだだったので、休憩を兼ねてサービスエリアによることにした。
京橋パーキングエリアで、食堂に入り、ラーメンを注文した。椅子に座ると、深い息が漏れた。車を運転し続けて、疲れが溜まっているようだ。
K県には、飛行機で行くことも考えたが、空港から小川村までタクシーでいけば、ぞっとする料金だ。レンタカーを借りるなら、マイカーのパジェロで、行ったほうがいいだろうと思った。
仕事に追われ、趣味を持てず、金の使い道が車へと向かい、買った車だ。パワフルな走りを求め、七人乗りの物にした。上司は、夜の街で遊べば金は飛んでいく、と言っていたが、自分がそこに癒しを求め、足しげく通う姿は想像できない。
私が初めて担当した、詐欺事件は、殺人事件へと、展開していった。犯人は詐欺の主犯格の社長の愛人、水商売の女だった。社長の愛人になって、少しすると、社長の奥方が事故死し、後妻のチャンスが巡って来た。しかし、彼女は既婚者だった。その為に、夫を自殺に見せかけて、毒殺した。彼女は取り調べで、夫の事を、『仕事だけで遊びを知らないつまらない男』、と言っていた。既婚者の同僚は、『事件を追いかけて約束をすっぽかしたことは一度や二度じゃない。俺もそのうち女房に毒殺されるかもな』、と笑いながら言っていた。女物の香水と酒の匂いが混ざった香りを嗅ぐと、この時の事を思い出し、酒がまずくなる。
夜の街より、車の運転のほうが、ずっと気分転換になる。もっとも、同乗者が居いない時ならだが。事件の捜査に追われ、ゆっくりテレビを見る時間のない、自分にとって、ラジオから流れてくる、最新のヒット曲が、今の流行の中に自分を入れてくれる。警官であることを言い訳にして、流行を無視するのは居心地がいいが、甘えでもあることを自覚している。車から流れてくるラジオは、そんな自分を、世間の中心部に導いてくれる。水面に浮かんでいるだけで、景色が変わる、円形の流れるプールのようだ。
「お待たせしました、醬油ラーメンです」
恰幅のいい、男の店員が赤い器を、私の目の前に置いた。湯気に乗って、いい匂いが鼻に運ばれてくる。
「ご注文は以上でしょうか?」
「ああ、ありがとう」
男の店員が上司に似ていたからか、春先に見合いの話を、持ち掛けられたのを思い出した。政略結婚、警察という組織の中で、出世するなら考えられる選択肢だ。年齢的にも、そろそろ年貢の納め時だろう。小川村に――いや、あの日記を見る前であれば、受けたかもしれないが――。
ラーメンをズルズルとすする。しょっぱい味が体に染みこむ。小川村を歩き回り、体力と汗を消費した分を、埋めてくれる。
昔から、事件を追っている時は、他の事が目に入らなくなる。出世や結婚に気がいかないのは、あの事件に捕らわれているからだ。今の心理状態で、自分の将来を決めるのは良くないだろう。こんな自分と結婚する相手がいるとすれば、それを承知で紹介される、見合い相手であろうが――それでも、いつか、私は毒殺されるかもしれない。
『仕事だけで遊びを知らないつまらない男』
ラーメンを食べ終わると、土産屋に寄った。十九年前の事件の捜査を、一人で続けるのは、難しいだろう。何人かの協力者に心当たりがある。手土産を、持っていったほうがいいだろう。小川村の隣町で買った土産は、上司と同僚に渡す分だけだ。瓦せんべいとソース味のせんべいを買った。その後、自販機で缶コーヒーとたこ焼きを買い、車に戻った。
阪神高速を抜け、東海道に入り、神奈川に着くと、ラジオを公共放送に変えた。交通、気象情報の後、ニュースが流れた。東京で事件が起きていないかと、耳を傾けたが、私を家に帰れなくするような、事件は起きていなかった。実際のところはどうか、家に帰って、電話に留守電が入っていなければ、今夜は家でぐっすり眠れるだろう。
高速道路の渋滞で、疲労しつつ家に帰ったのは、日付が変わる直前だった。
都心から少し離れた、閑静な住宅街に建つ、独り身には不釣り合いのこの家は、元々は母の親戚の家だった。子供がおらず、夫婦二人で住んでいたが、夫が亡くなり、妻が病院暮らしになると、売りに出そうかと、母に相談して来た。丁度、私が引っ越しを考えていたのを、知っていた母は、私に家を買うように進めた。知人がこの家に来ると、女の気配が無いのを見て、一人で使うには寂しいだろうと、嫌味を言ってくる。母が私にこの家を買わせたのも、まさしくそれが目的だろう。さっさと相手を見つけろと家が語っている。
ガレージに車を駐め、武骨な鉄の門を開け、家に入る。手に持っていた、伯父さんの日記などを、リビングのテーブルに置くと、服を脱ぎ散らかしながら、電話機を確認する。留守電を確認すると、母の声が流れた、伯父さんの葬儀から無事に帰れたかの確認だった。記録されていたのはその一件だけで、警視庁からはなかったことに安堵する。
書斎に向かい、学生時代の連絡帳を探した。明日は早朝から本庁に顔を出した方がいい、今夜のうちに準備しておかないと――。学生時代の悪友の連絡先を、手帳に書き写した。まだ起きているかもしれないが、家の外で飲んでいるかもしれない。急な用事でもないし、明日の朝でいいだろう。
シャワーを浴びて、冷蔵庫からビールを取り出し、口に流し込む。たこ焼きしか入っていない空きっ腹に、ビールが効く。リビングの椅子に座ると、駐在所に保管されていた、捜査記録を手に取り、読み始めた。
家の日記とは違い、細かい時間や、場所、人物まで書かれた、職務の記録だ。全部読むと、朝になってしまう。今夜は、気になる所だけを読もう。それだけでも相当時間はかかるだろう。
捜査記録の中でも特に確認しておきたいのは、事件から六日後の九月十八日の記録だ。伯父さんの日記には、この日は、【鬼子を見た】、とだけしか書かれておらず、どんな捜査をしたのかは分からない。【鬼子】に近づくには、この捜査記録が一番重要なはずだ。
それに、公民館で聞いた、鬼子母神。関係がないかもしれないが、この捜査記録に、それに関係したものが出てくるかもしれない。注目する先が増えたのは良いことだ。
九月十八日の捜査記録は思ったより簡潔だった。この時点で、警察は吉永沙也加が、小川村の近辺にはいないと、結論付けている。大量の捜査員を導入して、五日間も探したのだから、当然の判断と言えるだろう。村の駐在である、伯父さんは、特に仕事は与えられず、村の身の回りが、ほとんどだったようだ。こんな中で【鬼子】を見たのか――。
期待した成果は得られず、落胆した。気を取り直し、捜査記録を最初から読み始める。
ぬるくなったビールを飲み干すと、キッチンの冷蔵庫から二本目のビールに手を伸ばす。ビールを開けようとしたところで、今が何時なのか気になった。壁掛け時計に目をやると、午前一時を過ぎていた。長時間の運転で、体には疲れが溜まっている。そろそろ眠ったほうがいいだろう。
結局、捜査記録からは【鬼子】に関係する、記述は発見できていない。伯父さんや当時の警察は、この事件を解決できなかったのだ。この記録にこだわると、泥沼にはまるかもしれない――。
手に持ったビールを冷蔵庫に戻すと、伯父さんの日記などを持って書斎へと向かう。あまり使う事のない、書斎のテーブルに、日記などを並べ、寝室へと向かう。小川村へ向かう前に、片付けたために、寝室はいつもと違って、綺麗に整っている。
ベッドの上に飛び込むと、それを合図にしたように、アルコールが頭に回り始め、急速に眠たくなった。残った力を振り絞り、目覚まし時計に手を伸ばし、アラームのスイッチをONにする。力なく腕が落ちると、意識は深い海へと沈んでいく。
3
「ジリリリリ」
目覚まし時計のアラームを切ると、ベットから上体を起こした。体は重たくない。ここ数日は布団で寝ている。ほんの一週間前は、ソファーで仮眠をとっていた。それを思えば極楽だ。
朝食を、トーストとハムエッグで済ませると、家を出る。早朝のうちに、本庁に顔を出しておきたい。学友への電話は、デスクからかけよう。
本庁に着くと、捜査二課に行く前に、保安課に寄った。早朝なので、目当ての顔がいなければ、メモを残していこうと思ていたが、運よく出勤していた。
近づくと、こちらの気配に気づき、椅子から立ち上がって声をかけてきた。
「芳賀さん、おはようございます。僕に何か用ですか?」
「おはよう。私用で遠出したんで、これ、お土産」
私は袋に入った、せんべいを渡した。
「ありがとうございます……それだけですか?」
「いや、外で話そうか」
「ああ、やっぱり……また面倒事ですか」
抗議とも思える、情けない声を出す後輩に、背を向けて外に出る。
庄司雄大、大学時代の二年後輩だ。私と違って、初めから警察を目指していたわけではなかったが、私を含め、警察志望の生徒と関わる中で、警察を志望することになった。金儲けには向いていない性格ではあるので、警察官はまだ彼らしい仕事と言える。もっとも、出世にはまるで興味がないようで、さっさと天下りでもした方が、彼は平穏無事に暮らせるのではないかと思う。
二人で自販機のコーヒーを買い、近くの椅子に座った。懐から、メモを一枚取り出し、渡した。
「ここに書かれている人物の所在を調べてほしい。聞いた話では、ほとんどが東京在住のはずだ」
メモには、吉永沙也加の同級生五人と、吉永夫婦の名前が書かれていた。
「全部で七人ですか……」
「今日明日中にやってほしいというわけではない。時間を見つけてやってくれ」
「なぜ自分でやらないんです?」
「電話で、捜査二課管理官の芳賀、と名乗るのか? 保安課の方がごまかしやすいだろ」
「いい機会じゃないですか。まだ、管理官、って言いなれてないでしょ?」
「お前はいつまで、巡査、と名乗るつもりなんだ?」
「まぁ、それはともかく、なんの関係者なんです?」
「終わったら話してやるよ。酒のつまみになる面白い話だ」
「期待しときますよ」
庄司は足早に仕事に戻って行った。彼も事件を追いかけているのだろう――。
警察で情報を集めたい人物が、もう一人いるのだが、そちらは簡単ではない。機会を見て、誰かに話を持ち掛けてみよう。
私は部長に挨拶をし、手土産を渡した。伯父が警察官だった事もあり、その辺の話がでたが、当たり障りのない返事で話を終わらせた。十九年前の誘拐事件を調べて、駐在所に行ったなどと、言えるわけもない。
捜査二課に向かい、自分のデスクで、メモに書き写した番号に電話をかけた。コール音を聞きながら、デスクの引き出しを開け、仕事の準備をする。
「もしもし、千葉です」
「加賀だ、まだ仕事に行かなくていいのか?」
「こんな朝っぱらから電話をかけてきて、開口一番それかよ」
千葉一輝は大学の同期だ。卒業後に司法試験に合格し、今は、父親の会社の子会社で、企業弁護士をやっている。
私が大学時代に、正体をなくすほど、酒を飲んだ時は、目が覚めると必ずこいつが一緒に寝ていた。人のペースを乱す、とんでもない悪友だ。
「お前の抜群の記憶力に、期待して電話したんだ。俺たちの同期に、日本文化の研究者になったやつがいたよな?」
「えーと、矢田の結婚式で言ってたやつだよな……確か、辻内だったかな」
「ああ、そんな名前だったな。連絡先は分かるか?」
「ああ、お前と違って俺は人付き合いがいいからな。お前もたまには飯くらい付き合えよ」
「お前と酒を飲むのは、もう懲りたよ」
「連絡先は今すぐに必要なのか?」
「いや、急ぎじゃない。今日中に用意できるか?」
「明日の朝にしてくれ、夜は何時に帰るか分からない」
「ほどほどにしておけよ」
「勘ぐるなよ、こっちにも色々あるんだよ」
そう言って千葉は電話を切った。あいつは図星を付かれたときに、含みを持たせるクセがある。酒ではなく、女に溺れているのかもしれないな。
その後は、公共工事の入札をめぐる贈収の調査で一日を終えた。
本庁から出る時に、見知った顔が居たので声をかけた。
「相馬さん、お疲れさまです。お帰りですか?」
「加賀か、お疲れ様。今日で手ぶらになったから、久々に定時で帰れるよ」
相馬功は捜査一課の警部補だ。相馬さんには、警視庁に来る前にいた、所轄でお世話になった。詐欺や横領が、傷害事件に発展することがたまにある。数か月前にも大阪で、詐欺師がマスコミの前で、刺殺された事件があった。その影響で、こっちもえらい仕事量になった。障害事件になると二課ではなく、一課が担当することになるが、その際に相馬さんと顔見知りになり、捜査の事を色々と教えていただいた。
所轄から警視庁に異動したのは、相馬さんが先だったので、私が異動になった時に、挨拶に来てくれた。
駅に向かいながら、相馬さんに捜査の協力をしてもらおうと、話題を出してみる。
「相馬さんは、明日から体が空いてますか?」
「今のところな。このままずっと東京が平和だといいな」
「実は、調べてほしい人物がいるんですが、協力してくれますか?」
「政治関係者か?」
「いいえ、仕事とは関係なく、プライベートです」
「お前らしくないな。何があったんだ?」
「今はまだ詳細を、言えないんですが、その人物は東京で自殺したらしいんです」
「殺しだと疑ってるのか?」
「まぁ……半々ってとこですかね」
私は長田琢真が殺害されたと確信している。それも、あの子供たちの誰かに。
【鬼子】――それが本当にいたのならだ。
「お願いできますか?」
「記録に目を通すだけなら」
「それで充分です。これがその人物の名前です」
私は長田琢真の詳細が書かれたメモを渡した。
「旧所在地がK県小川村……生年月日も分かってるし、探せるだろう。しかし、十年以上前か……どれだけ記録が残っているか――」
「急ぎではないですし、無理だったら断ってくださって構いません」
「事件さえ起きなければ調べられる。捜査記録の中で、特に確認しておきたいことは、無いのか?」
「そうですね、亡くなる前に連絡を取ったり、会っていた人物がいたか、ですかね」
「該当する人物がいれば、書き写しておく」
「無理のない範囲でいいので、お願いします」
駅で相馬さんと別れ、家に帰ると、最寄りのスーパーで買った総菜を、リビングのテーブルに並べる。テレビを付け、ニュース番組のトップニュースを確認する。投資詐欺事件に関するニュースが報じられている。私が六月に、寝る間のないほど、働かせられた事件だ。犯人が逮捕されて、私の仕事は終わった、次は検察の仕事だ。
ニュースは政治の話を取り上げた後、地域の情報に変わった。
晩飯を平らげて、シャワーを浴びると、缶ビールを持って書斎の椅子に座る。駐在所の捜査記録は今日中に読み終わるだろう。新しい発見はどうにも期待薄だ、伯父さんは日誌に事件の重要な点を漏らさず書いており、捜査記録は警察の動きが分かるだけで、住人、特に子供たちのことはほとんど書かれていない。それに、詳細な住人の証言や、取り調べの記録は、所轄の捜査記録に書かれているのだ。
捜査記録を読み終え、ため息をつき、ビールを飲み干す。
分かっていたことではあるが、手も足も出ない。十九前の未解決事件を、当時の記録だけで、解決できるなどとは思っていなかったが、残された謎の影すら分からない。
【鬼子】――本当にこの事件と関係あるのか? いや、この日記を残したのは、伯父さんの意思だ。私に、この事件を解決してくれと、この日記は訴えている。
捜査記録で気になった情報は、吉永家と長田家の家宅捜索が行われ、長田家からは吉永沙也加の、痕跡は見つからなかったようだ。吉永家の庭なども捜索して、埋められた跡がないか確認している。無論、痕跡はなかった。
そして、長田琢真に関して気になる点が一つ。警察の調べでは小川村から公民館に到着するまで二十二分。長田は二十五分かかっているが、行きは荷台に小道具が積まれているので、この程度の時間は許容範囲だろう。問題は帰りだ。公民館から小川村まで三十分かかっている。長田が隣町にいる時点では、まだ吉永沙也加は小川村で目撃されているので、隣町で彼がどれだけ時間を使おうがアリバイには関係ないのだが、帰りが遅くなった理由が引っかかる。
『同乗していた亀山くんがノウササギを見つけて、山で車を停めた』。
子供の意思で山で車を停めたことになっている。当時の警察はこの証言を疑ったのではないだろうか。だからこそアリバイのある長田の犯人説が残った。私が気になるのは長田ではなく、子供が証言したということだ。【鬼子】、もし、この亀山がそれだったとしたら――。
記録を見て、当時の警察は、吉永夫婦と、長田琢真の二人にホシを絞っていたのがよく分かった。それ以上の事は、捜査記録から読み取れなかった、とも言える。
この事件を解決するには、新しい情報が必要だ。しかし、十九年もたって新しい情報など得られるのか。
【鬼子を見た】――考えようによっては、これは新しい情報だ。伯父さんはこの事を、誰にも話してないのではないだろうか。少なくとも、この捜査記録には、それと思える情報は書かれていない。もし、他の警察官が、伯父さんの目撃情報を知らされたら、この事件は解決できただろうか――。いや、伯父さんがそんな重大な情報を隠すだろうか。それでは犯人隠匿だ、伯父さんはそんなことはしないはずだ。
けど、それが伯父さんにとって、守るべき大切な村の子供なら――。
あの日誌は、伯父さんにとって、罪の告白なのだろうか……。
4
この日は、目覚まし時計のアラームが、鳴る前に、目が覚めた。
朝食の準備が、終わった頃に、電話が鳴った。
「加賀です」
「千葉だ、辻内の連絡先、分かったぞ」
「助かるよ」
私は辻内の電話番号を、手帳にメモした。
「なんの用があるんだ? 警察に協力できるような、研究はしてないだろ」
「個人的に日本の風習に、興味を持っただけだ。お前も言ってただろ、もっと人付き合いをしろって」
「お前は真面目な態度で、嘘をつくから、友達ができないんだよ」
「余計なお世話だ。警官が簡単に、友達を増やせるほど、日本の犯罪は、少なく無いんだよ」
「辻内に会ったら、俺が飯でも食おうと、言ってたと、伝えてくれ」
「飯じゃなくて、酒のほうだろ」
「どっちもさ、それじゃ」
「ああ、手間をかけさせたな」
電話を切ると、さっそく辻内に電話をかける。
辻内は同期の中では、話したほうだ。学生時代から、日本の文化に興味を持ち、よく調べていた。祭り好きの千葉に誘われて、私と辻内の三人で、遠出をしたものだった。帰りは眠る二人を、後部座席に置いて、私が車を運転した。深夜の静かな道を走るのは、その頃から好きだった。
「はい、辻内です」
「加賀だ、久しぶり」
「おお、突然なんだ?」
「お前が日本文化の研究をしてると、言ってたのを思い出してな。今もやってるのか?」
「おかげさまで大学の助教授さ」
「たいしたものだな、神社の祭り、神楽などにも詳しいか?」
「そりゃな、風習なんてのは、宗教を元にしたものがほとんどだからな」
「鬼子母神の事も詳しいか?」
「……また変な名前を出してきたな。存在は知っているが専門では無い。日本ではそれほど祀られてないしな」
「知ってる範囲でいいから話を聞きたい。大学に尋ねればいいか?」
「ああ、今週末に来られるか?」
「土曜日はどうだ?」
「昼前に来てくれ。こっちは貧乏助教授だ、昼飯はおごってくれよ」
「ああ、分かったよ。それと、できればでいいんだが、二十年ほど前に亡くなった、K県出身の学者が、鬼子母神の研究者だったらしい。彼の研究内容も、調べてくれるか?」
「歳上の研究者には、事欠かないから、聞いてみるよ。人間、歳をとると、昔話をしたがるからな」
「よろしく頼む」
今週末に仕事が入らなければいいが、急な仕事に追われるのは、警察官の常だ。
本庁で仕事をこなしていると、正午過ぎに庄司が訪ねてきた。
「先輩、昼飯行きません?」
「いいぞ、丁度、切りのいいとこだ」
近くのレストランで、私はパスタを、庄司はステーキを注文した。
「頼まれたやつですけど、一通り調べましたよ」
「早いな、仕事をサボったんじゃないだろうな?」
「そんなこと言ったら、保安課の仕事なんて終わりがないですよ」
私は、庄司が渡してきた、メモに目を通した。
「えーと、桑原勉は弁護士です。刑事事件も扱ってるから、簡単に住所が分かりました。それと、剣持和歌子は実業団で陸上選手をやってます。全日本女子駅伝にも、出場したことがあるらしいです。こっちも住所がすぐ分かりました。後は、亀山豊は教師をやってたようですが、今は塾講師です。教師の時の住所は見つけましたが、引っ越している可能性もあります」
「仕事先が分かっているのなら十分だ」
「それと、吉永夫婦の住所も見つけました。川の環境を守る、ボランティア活動をしてます」
川の保全か――警察が吉永沙也加は、川の事故で死んだと、結論付けた事が影響してるのだろうか。
「小森由美ですが、音楽関係の仕事をしているようです。どうやら芸名で活動しているのか、現在の所在を含めて、よく分かりませんでした」
メモには小森由美が活動していた、音楽グループと、劇場が書かれている。
「最後に岸本進平ですが、高校卒業後の消息は分かりませんでした。一応調べたんですが、前科はありませんでした」
一般人が、どんな人生を歩んでいるかは、近しい人に聞き込みでもしないと、分からない。むしろ、岸本進平以外の者の、詳細が分かったのが、運が良かったのだ。
「一日でよくここまで、やってくれたな。ありがとう、助かったよ」
「お役に立てて良かったです。大学の講義の時みたいに、昇進試験も助けてくださいよ」
「無茶言うなよ……」
夕方になって、仕事に区切りをつけようかと、思い始めた時に、部長から声をかけられた。
「週末だが、用事を頼めるか?」
「出勤ですか?」
「いや、私の知人が、相談したいと言ってきてね。あいにく私は、先約があって、行けないのだよ」
「都内ですよね?」
「もちろん、世田谷だ」
「では…土曜日の午後二時で、どうでしょうか?」
「分かった。先方に伝えておく」
いつもなら休日に予定を入れられのは、不愉快だが、仕事が入って、辻内に約束を断ることがこれで無くなった。部長からすれば、警察内の仕事より、外の政治の方が優先度が高い。私も部長になれば、そうなるのだろう。
土曜日の朝は都合よく晴れていた。溜まっていた洗濯物を干すと、近所の喫茶店へ、モーニングを食べに行く。喫茶店で朝食を済ませ、新聞を読めば、辻内のいる大学に向かうのに、いい時間になるだろう。
馴染みの喫茶店〔おとずれ〕は、週末のたびに一度は顔を出すのだが、ここ一月は仕事に追われ、ご無沙汰だった。
喫茶店に入ると、マスターがコーヒー豆を挽いていた。
「いらっしゃいませ」
マスターは五十代後半といったところだ。白くなり始めた髪は、短く刈っている。調理をしている時は、集中していていて、無表情なのが強面を強調させるが、常連と喋れば穏やかな笑顔を見せる。
「モーニングのAセットをお願いします」
「かしこまりました」
店の入り口の、ブックスタンドから、新聞紙と週刊誌を取り、奥のテーブル席に向かう。この店はカウンター席と、手前に四人用のソファー席、奥に二人用のテーブル席がある。
この店は平日の朝は利用客が多いが、週末はそれほどでもない。だいたいテーブル席は空いてるので、一人だが利用している。カウンター席で新聞を読むのが、あまり好きではないからだ。
静かな店内に新聞紙をめくる音だけが聞こえる。この店では音楽が流れない。それでも居心地の悪さはない。店の雰囲気が暖かく包み込んでくれる。ふかふかのソファーに座れば、何時間でも店内で過ごせるだろう。
「お待たせしました」
モーニングを運んできたのは、初めて見る女性だった。配膳はいつもマスターの奥さんがやっていた。
年齢は三十代前半、化粧は薄く、ピアスやネックレスなどを付けず、長い黒髪の光沢だけが彼女を飾っている。
「初めまして、加賀です。いつからここで働いてるんです?」
「私、ここの娘の奈央です。先日までバーテンダーをやっていたんですが、店のオーナーがギャンブルの借金が原因で夜逃げしちゃったんです。それでお店も閉まったので、次の仕事が決まるまでここで働くことにしたんです」
「ああ、そうだったんですか。私は三年前にこの近所に引っ越してきましてね。それ以来、マスターと奥さんにはお世話になってるんですが、お子さんがいるとは知らなかったです」
「お父さんが、『家族の事を仕事場で話すな』って言うのよ」
ゴホンとカウンターからわざとらしい咳払いが聞こえた。
「それじゃ、ごゆっくり」
彼女は小さく頭を下げ、下がって行った。足取りに気品がある。前の職場での杵柄だろうか。
彼女はカウンターの中に入ると、マスターの肩を叩いた。
新聞紙をたたみ、テーブルの端の週刊誌の上に置くと、コーヒーを一口飲んだ。
モーニングAセットは、四枚切りトースト一枚にバターが一欠け、レタスとキュウリとトマトにハムの入ったマカロニのサラダ、コーンスープ、ゆで卵、四分の一のオレンジ、そしてコーヒー。
トーストを手に取り、バターを乗せる。トーストの熱でバターが溶け、トーストの上を滑る。
見慣れた光景に自分が日常の中にいることを実感する。それでも胸がいつも以上に高鳴っているのは、【鬼子】のためか、それともカウンターでほほ笑む一輪の花ゆえか。




