【第1話】広がる炎
朝の煤谷村には、いつも煙の匂いがする。
山の中腹にある、小さな村だった。
家は少ない。
田んぼも広くない。
細い道と、古い家と、炭焼き小屋が、山の斜面にしがみつくように並んでいる。
村の外れでは、炭焼き小屋から白い煙が上がっていた。
そのずっと向こう。
山の稜線の先に、灰ヶ峰城が見える。
燧国を治める、燧家の城だ。
燧国。
その名の通り、この国は火と深く関わっている。
北の山には鉄がある。
森には炭がある。
川は澄み、木はよく育ち、南には船の集まる港もある。
火打ち石。
炭。
鉄。
木材。
水。
港。
燧国には、周りの国々が欲しがるものが揃っていた。
だから、周りの国々は燧国を狙っていた。
東の荒砥国。
北の梶ノ国。
西の弓削国。
南の瑞穂国。
さらに、その先にも大小いくつもの国がある。
どの国も、米を欲しがり、鉄を欲しがり、山を越える道と、港へ抜ける道を欲しがっていた。
けれど、火守迅にとって、そんな話は遠かった。
国が豊かだろうが、城下が栄えていようが、煤谷村の朝は変わらない。
泥に足を入れる。
鍬を持つ。
腹を空かせる。
煙の匂いをかぐ。
それが、迅の日常だった。
「迅兄ー。手、止まってるよー」
畦道の脇から、妹の火守小夜が明るく言った。
迅は田んぼの中で、泥に足を取られながら鍬を持っていた。
「止まってねえ。考えてただけだ」
「何を?」
「どうすれば働かずに飯が食えるか」
「それ、考える前に働いた方が早いよ」
「小夜。そういう正しいことを言うな。兄が傷つくだろ」
小夜はけらけら笑った。
十一歳の妹は、よく笑う子だった。
村の大人たちにも可愛がられている。
よくしゃべるし、よく動く。
誰にでも気さくに話しかける。
けれど、ただ明るいだけではない。
小夜は、よく見ていた。
人の顔。
道についた足跡。
米びつの減り方。
大人が見落とすようなものを、当たり前のように見つける。
今も小夜は、平らな土の上にしゃがみこんでいた。
小石を置く。
小枝を並べる。
炭の欠片をそっと動かす。
それは子どもの遊びに見える。
でも、よく見ると違った。
小石は村の家。
小枝は道。
炭の欠片は山と炭焼き小屋。
小夜は土の上に、煤谷村を作っていた。
「また村作ってるのかよ」
畦道で木槍を振っていた火守烈が言った。
烈は迅の弟だ。
十四歳。
迅より二つ下だが、村の若者たちの中でも一番動きが速い。
短く切った黒髪。
つり上がった目。
右の頬には、小さな傷。
烈は木槍を構え直すと、空に向かって大きく振った。
「はっ!」
木槍が風を切る。
迅は横目で見て、ため息をついた。
「朝から元気だな、お前は」
「兄上は元気がなさすぎる」
「田んぼで跳ね回るやつがいるか」
「兄上は槍より鍬の方が似合うな」
烈が笑った。
迅は鍬を肩にかける。
「鍬で腹は膨れる。槍じゃ飯は炊けねえだろ」
「でも、槍がないと米を奪われるよ」
小夜が明るい声のまま言った。
迅と烈が、同時に小夜を見る。
小夜はにこっと笑いながら、土の上の小枝を一本、東へ動かした。
「……お前なあ。笑いながら怖いこと言うなよ」
「えー、ほんとのことだよ?」
「ほんとのことでも、朝はもうちょい楽しい話をしろ」
「じゃあ、お昼のご飯の話する?」
「それはそれで悲しくなるからやめろ」
小夜はまた笑った。
その笑い声を聞くと、迅は少しだけ安心した。
この村には、笑い声がある。
母がいて、烈がいて、小夜がいる。
田んぼがあって、山があって、炭焼き小屋から上がる白い煙がある。
それでよかった。
それだけでよかった。
戦なんて、遠い場所で勝手にやっていればいい。
迅は本気でそう思っていた。
「迅兄」
小夜がふいに言った。
「昨日来た使いの馬、山道を通ってないよ」
迅は首を傾げた。
「なんで分かるんだよ」
「蹄に赤土がついてたもん。東の街道の土」
烈が木槍を下ろした。
「お前、馬の足まで見てんのかよ」
「見るでしょ、普通」
「普通じゃねえよ」
迅が言うと、小夜は少し得意そうに胸を張った。
「小夜はよく気づく子だからね」
「自分で言うな」
「迅兄も気づいてるよ」
「何に?」
「お腹空いてるのに、さっきから私におにぎりくれようとしてる」
迅の手が止まった。
田の端に置いていた小さな包みに、小夜が目を向ける。
朝、母が持たせてくれた握り飯だ。
迅はまだ手をつけていなかった。
「……別に。泥食ったから腹いっぱいなだけだ」
「泥は食べ物じゃないよ」
「似たようなもんだ」
迅は包みを開け、握り飯を半分に割った。
少しだけ大きい方を、小夜へ投げる。
小夜は両手で受け取った。
「迅兄、また自分が小さい方」
「違う。こっちの方がうまそうだっただけだ」
「嘘下手だねえ」
「うるせえ。食うなら黙って食え」
小夜は笑いながら、握り飯を少しだけかじった。
その目は、いつもより少し優しかった。
小夜は迅を尊敬していた。
迅は強くない。
烈のように木槍を振れるわけでもない。
大人たちのように、国だの名誉だのを大きな声で語ることもない。
でも、迅は弱い人を見捨てない。
重そうな荷を抱えたおばあさんがいれば、文句を言いながらも手を貸す。
子どもが泣いていれば、面倒くさそうな顔でそばにいる。
飯が少なければ、自分の分を少しだけ誰かに渡す。
迅はいつも、口では嫌そうにする。
でも最後には、必ず手を伸ばす。
小夜は、そういう迅兄が好きだった。
強い兄ではない。
でも、一番信じられる兄だった。
*
昼前、馬の音が村に入ってきた。
土を蹴る音が近づく。
村の者たちが、手を止めた。
田んぼにいた者。
炭焼き小屋にいた者。
家の中にいた女たち。
みんな、広場へ集められた。
馬に乗ってきたのは、燧家の使いだった。
名を、片倉弥一郎という。
灰ヶ峰城からの命を運ぶ、若い武士である。
弥一郎は馬から降りると、村長の前に立った。
顔はかたく、声も冷たい。
迅は人の後ろに隠れるように立っていた。
隣には烈。
少し後ろに、小夜と母の火守志乃がいる。
小夜はいつものように明るく笑ってはいなかった。
弥一郎の馬の足を見ている。
それから、弥一郎の顔を見る。
最後に、村長の手元を見た。
村長の手は、少し震えていた。
小夜は小さく息をのんだ。
迅はそれに気づいた。
「小夜?」
「……あの人、いい知らせ持ってきてないと思う」
小夜の声は小さかった。
弥一郎が書状を広げる。
「燧家より下知」
広場が静かになった。
「荒砥勢、東より進みあり。各村より、健脚の男を差し出すべし」
誰かが息をのんだ。
迅の背中にも、冷たいものが走った。
健脚の男。
嫌な言葉だ。
足が速い者。
山道に慣れている者。
荷を運べる者。
逃げずに走れる者。
迅は、自分の足が速いことを少しだけ恨んだ。
「荒砥だけじゃねえって話だぞ」
村人の一人が、小さな声で言った。
「北の梶ノ国も、西の弓削国も、兵を集めてるらしい」
「瑞穂国の米も値が上がってるってよ」
「港じゃ火薬の値も跳ねたそうだ」
「どこもかしこも戦支度か……」
迅は聞こえないふりをした。
荒砥国だけではない。
梶ノ国も、弓削国も、瑞穂国も。
南の港も。
どこも火を起こそうとしている。
そんなことを考えたくなかった。
広場の端では、弥一郎と村長が小声で話していた。
「兵糧はいつまでに」
「三日以内だ。米と塩を灰ヶ峰へ送れ」
「男を出した上に、米もですか」
「命だ」
そのやり取りを、迅は聞いてしまった。
男だけではない。
米も取られる。
戦は、人の体だけでは足りないらしい。
腹の中まで持っていく。
村長がゆっくりと顔を上げる。
その目が、迅を見た。
やめろ。
見るな。
心の中で思った。
だが、村長は言った。
「火守の家からは……迅」
周りの視線が、一気に迅へ向く。
「……なんで俺だよ」
口からこぼれた。
誰も答えない。
答えなど、分かっていた。
父がいない家。
男手がある家。
山道に慣れている家。
それが火守の家だった。
烈が一歩前へ出た。
「俺が行く」
迅はすぐに烈の腕を掴んだ。
「馬鹿言うな」
「兄上より俺の方が戦える」
「お前はまだ子どもだ」
烈は迅を睨んだ。
「死ぬのに、歳なんか関係あるのかよ」
広場が静まり返った。
母の志乃が、唇を噛む。
小夜は烈を見て、次に迅を見た。
小夜には分かっていた。
烈は強い。
でも、前しか見えなくなる。
迅は怖がりだ。
でも、誰が泣くかを見ている。
だから小夜は、迅の手を信じていた。
誰かを止める手。
誰かを助ける手。
文句を言いながらも、最後には伸びる手。
「烈兄」
小夜が言った。
「なに」
「迅兄の手、離しちゃだめ」
烈は眉をひそめた。
「なんでだよ」
「今の烈兄は、走り出したら戻ってこない顔してる」
烈は言い返そうとして、言葉を飲んだ。
迅は烈の腕を離さなかった。
烈はまだ知らない。
戦場で、人がどれだけ簡単に死ぬのか。
槍を持たされた百姓が、どれだけあっけなく倒れるのか。
父が帰ってこなかった理由を、烈はまだ知らない。
だから、行くと言える。
だから、戦えると言える。
迅は奥歯を噛みしめた。
*
村の裏には、細い林道がある。
迅はそこまで歩いてきて、ようやく息を吐いた。
逃げたわけではない。
そう思いたかった。
「逃げるのかよ」
後ろから烈の声がした。
迅は振り向かない。
「逃げて何が悪い」
「火守の家だろ」
「だから何だよ」
「火を守る家だろ」
その言葉に、迅の足が止まった。
火守の家。
煤谷村には、山の祠に小さな火がある。
昔から、消してはいけない火だと言われていた。
火守家は、その火を守る役目を持っている。
父も、その火を守っていた。
でも父は、戦に連れて行かれて戻らなかった。
火を守っても、人は守れなかった。
迅はそう思っている。
「火なんか、守って何になる」
迅は低く言った。
烈の顔が変わる。
「父上は守った」
その瞬間、迅の胸の奥で何かが熱くなった。
「だから帰ってこなかったんだろ!」
烈が黙った。
風が木の葉を揺らす。
迅は言ってから、すぐに後悔した。
でも、もう遅い。
言葉は戻らない。
「俺は死にたくねえ」
迅は目をそらした。
「お前にも死んでほしくねえ。小夜にも、母上にも、もう泣いてほしくねえ」
声が震える。
「それの何が悪い」
烈は何も言わなかった。
少し離れた場所に、小夜が立っていた。
小夜は二人を見ていた。
いつもの明るい顔ではなかった。
でも、怖がっているだけでもなかった。
「迅兄」
小夜が言った。
「迅兄は弱くないよ」
迅は小夜を見た。
小夜は、少しだけ笑った。
「怖いって言える人は、ちゃんと見てる人だもん」
迅は何も言えなかった。
烈も何も言わなかった。
小夜の言葉は、明るくはなかった。
でも、温かかった。
*
その夜。
犬が吠えた。
最初は一匹だけだった。
すぐに、別の犬も吠えた。
また別の犬も吠えた。
村のあちこちで戸が開く。
「何だ?」
「山か?」
「いや、あれを見ろ」
迅も外へ出た。
冷たい夜風が頬をなでる。
山の向こうが、赤かった。
空が燃えているようだった。
「火だ……」
誰かが言った。
「方角は?」
「沢村だ。沢村が燃えてる」
隣の村だった。
迅は言葉を失った。
沢村には知っている顔がある。
去年、田植えを手伝いに来た男がいた。
母に干し柿をくれたおばあさんがいた。
小夜に竹細工をくれた子どもがいた。
その村が、燃えている。
烈が木槍を握った。
「荒砥か」
「分からねえ」
迅はそう言った。
でも、自分の声が震えているのが分かった。
小夜が火を見ていた。
じっと。
まばたきも少なく。
いつものよくしゃべる小夜ではなかった。
迅はそれだけで、嫌な予感がした。
「小夜?」
「……あの火、変」
小夜の声は低かった。
烈が振り向く。
「何が?」
「風、西から吹いてるよね」
迅は夜風を感じた。
確かに、風は西から吹いていた。
「それがどうした」
「なのに、火が三つに分かれてる」
小夜は燃える山の方を指した。
「燃え広がったんじゃない」
小夜の明るさが、完全に消えていた。
「誰かが、火をつけたんだと思う」
周りの村人たちが黙った。
迅の背中に寒気が走る。
火事じゃない。
誰かが火をつけた。
沢村を焼くために。
その事実が、夜の寒さよりも冷たかった。
母の志乃が、小夜を抱き寄せる。
小夜は抵抗しない。
でも、目だけは火から離さなかった。
烈が一歩前へ出る。
「俺も行く」
迅は振り向いた。
「来るな」
「なんでだよ!」
「お前が来たら、小夜を誰が守る」
烈は唇を噛んだ。
その時、村長が近づいてきた。
手には古い槍があった。
長い間、使われていなかった槍だ。
柄には傷がある。
穂先も頼りない。
それは、武士が持つような立派な槍ではなかった。
村長は、それを迅へ差し出した。
「明日は、ここかもしれん」
迅は槍を見た。
手が震えた。
こんな棒で何ができる。
火を止められるのか。
敵を追い返せるのか。
父を取り戻せるのか。
何もできない。
そう思った。
でも、後ろには母がいた。
烈がいた。
小夜がいた。
村があった。
迅は、震える手で槍を握った。
冷たい木の感触が、手のひらに食い込む。
「こんな棒で……」
声がかすれた。
「火が守れんのかよ」
遠くで、沢村が燃えていた。
火の粉が夜空へ上がる。
村長が、燃える空を見ながら小さく言った。
「迅。あれは戦の火だ」
迅は答えなかった。
村長は続けた。
「だがな。誰かを守ろうとして灯す火もある」
迅の手に、槍の柄が食い込む。
「昔の者は、それを徒火と呼んだ」
徒火。
迅は、その言葉の意味を知らなかった。
ただ、胸の奥に小さな火が落ちたような気がした。
熱いのに、冷たい。
怖いのに、目をそらせない。
その夜、火守迅は初めて、戦の匂いを知った。
そしてまだ知らなかった。
この小さな村で握った古い槍が、やがていくつもの国の火を揺らすことになるなど。




