9月:遠出
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9月のはじめ。
喫茶店の上に住んでいるからといって、お店で出すコーヒーを淹れさせてもらえるわけじゃない。私は中学生だし、バイト未満のお手伝いだ。
だから普段は自分の器具で、みんなにコーヒーを淹れていたのだけれど、先日うっかりお気に入りのガラス製のドリッパーを割ってしまった。
ショックで落ち込んだけど、これもいい機会だと思うことにした。
私はずっと憧れていたコーヒーサイフォンを手に入れようと、明日の土曜日に狙いを定めた。日曜日はお父さんと会う予定があるから明日しかない。目当ての販売店は隣県にしかなかったけど、大きな買い物だ、県をまたぐくらいどうってことない。
ところがだ、私が一人で遠出することを、輝美さんは許してくれなかった。
私は仕方なく、同伴者を求め住人たちの予定を聞いて回った。春美ちゃんがアルバイトでいないのはわかっているし、みのりちゃんは友達と遊ぶ予定が入っていた。みどりちゃんも部活に出るらしい。
私は消去法で、店のバイトでモップ掛けをしていた一孝の袖を引っ張った。彼は夏期講習の授業料を輝美さんに借りていたので、最近よくお店に出ていた。
「明日ひま?」
聞きながら、この人に暇などないのだろうな、と思った。きっと暇なら勉強をするのだから。
「良かったらお買い物に付き合ってほしいのだけど」
私はお父さんになにかをねだるときのように体をくねらせた。
「買い物? それくらいなら」
意外にも一孝は快諾してくれた。
「本当に? よかった。あのね、輝美さんがね、一人じゃだめだって許してくれなくて」
「え、なんか遠くまで行く感じ?」
どうやらちょっとそこまでだと思って、安請け合いしたらしい。
「うん、名古屋まで」私は悪びれず言った。「あのねコーヒーサイフォンが欲しいの。通販でも買えるけど、高い買い物だし自分の目で見て決めたくて」
「他のみんなは?」
「春美ちゃんはアルバイト、みのりちゃんはお友達と約束、みどりちゃんは部活だって」
カウンターから輝美さんが
「バイト出なくていいぞ」
と言った。
翌日、私は上下白のパンツルックで気合を入れて快速急行に揺られていた。子供の買うものではないので、せめて見た目だけでも大人っぽくしてみた。一孝は白いTシャツの上にオープンカラーのシャツを羽織り、下は黒のワークパンツを履いていた。確か春美ちゃんが学校の課題で作ってきたシャツだ。品があってよく似合っている。
電車は混んでいて、私も一孝もつり革を握っていた。
私は電車の中なのに自然と鼻歌が漏れてしまうくらいご機嫌だった。
途中、地下鉄の乗り換えで手間取ったりしたけど、無事目的の繁華街に着いた。
休日の街は景気よく行き交う人でごった返していて、我が家のある閑散とした商店街とは雲泥の差だった。
さて、目的の店にいきなり行くのも味がない。もっとじらさなくては。
私はキッチンカーで買い食いをしたり、ウインドウショッピングを楽しんだり、大きなゲームセンターに入ったりして、普段の出不精が嘘みたいに休日を満喫した。
一孝は文句も言わずに、はしゃぐ私の一歩後ろで、ずっと保護者をしていた。
目的の店は、都会なのに木々に囲まれたオシャレな空間にあった。
店に入ると、私は早速ひとつひとつの商品を念入りに比べて回った。
そんな私に、一孝は子守りの必要がないと思ったのか、早々に壁にもたれて単語帳をめくりはじめた。
「ね、これにする」
吟味に吟味を重ねた結果、私はそのコーヒーサイフォンの前に一孝を引っ張ってきた。アルコールランプを使うものは輝美さんに嫌がられそうなので、少し高くなるけど電気式のものを選んだ。
「え、高くない?」
値札を見て一孝は目を丸めていた。
「長く使うものだし、こうゆうときのためにお金も貯めてきたから大丈夫」
私は満面の笑みで、重たい紙袋を両腕で抱いて歩いた。一孝は代わりに持とうかと言ったが丁重にお断りした。
「一孝はなにか買わなくていいの?」
紙袋にあごをうずめながら、私は彼を見上げた。
「欲しいもの、ない?」
一孝は少し考えるそぶりを見せたがすぐに
「俺の欲しいものはみんな地元かネットで買えるからなあ」
と言った。
「ふーん」
私は言った。
「今日一日、保護者してくれたお礼がしたいんですけど?」
「べつにいいよ。息抜きになったし」
私は「ふー」と彼に聞こえるように溜息をついた。
「じゃあこれで淹れたコーヒー、一番に飲ませてあげる。それでいい?」
「うん、いただきます」
強い西日の逆光の中、彼はまた老人みたいな、植物みたいな笑みを浮かべた。
帰りの電車は二人とも座れた。
「お父さん再婚だってね」
参考書をぺらぺらめくりながら一孝が言った。勉強している様子はなく、本当にただ癖で開いているだけみたいだった。
「どうやらそのようですね」
「なに? 反対なの?」
彼は笑った。
時間潰し意外に意味なんかないんだろうけど、彼が突っ込んだ話をしてくることが新鮮だった。
「どっちでも」と私。「あんまり興味ない」
一緒に住むわけでもないのだし。
「どっちでもいいなら、賛成してあげたほうがお父さん喜ぶんじゃない?」
そうだろうか? 母のにおいがする女からの祝福を、お父さんはどう思うだろう。その問いには難しくて答えが出なかった。
「結婚式には出るんでしょ?」
「まあ、それもどっちでもいい」
「出たほうがいいよ」
「どうして?」
「出て後悔することは多分ないけど、出ないで後悔することはあると思う」
「一孝は後悔してない?」
「なにが?」
「きちょーな休日を買い物に付き合わされて」
彼は笑った。
「してないよ。いい息抜きになった。県外に出たのなんて修学旅行以来だよ。それに夏休みはちょっと根を詰めすぎていたから、どこかで息抜きは必要だったんだよ」
「喧嘩もするしね」
「あれはごめん」
私は冗談で言ったのに、一孝は真面目に謝った。
「あんなに声を出したのは久しぶりだったよ。みのりとは喧嘩することもあったけど、チビ共が泣き出すからいつも隅っこで小声で喧嘩してた。だからあんなのははじめてだ」
「環境が変わると人も変わるのかしらね」
「いぶきはうちに来てなにか変わった?」
私はまた言葉に詰まった。一孝は心の難しい質問をする。
「わからない。でもいま私幸せだよ。だから再婚とかよくわからないことで揺さぶらないでほしい」
「きっとなにかのきっかけになるよ。それがいいことだといいね」
なんだか子ども扱いされているみたいで、ふーんって感じだった。たった二つしか違わないのに、一孝と話していると、お父さんや草太さんと話しているときと同じ気分になる。もっともそれは、施設で常に子供たちの面倒を見てきた彼の習性ではあるとは理解しているのだけれど、それでもやっぱりちょっとムッとしてしまう。
いかんいかん。休日を割いてくれた恩人にそんなこと思ってはいけない。
私ははじめてのコーヒーサイフォンで失敗しないように、店員さんから教わった使い方を何度も反芻した。
間違えないように、丁寧に、正しい手順で、慎重に、彼においしいコーヒーを淹れてあげなくては。




