8月:河野家
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そんなこといわれましてもね。
閉店間際、お店のエプロンを付けてテーブルを拭いていると、タバコとライターの忘れ物があった。
私はそれをこの喫茶店の店主であり、私の里親でもある輝美さんに報告した。
「忘れ物。タバコとライター」
「常連のじいさんだろ。カウンターの見やすいところにでも置いておけ」
布巾でグラスを拭きながら輝美さんは言った。
「はーい」
私は言われた通りにすると、カウンターを拭きながら輝美さんを見上げた。
「なんだ?」
しばらくして輝美さんは私の視線に気付いた。
「取りに来なかったら輝美さんが吸っちゃえば?」
「は?」
「輝美さん昔タバコ吸ってたでしょ?」
私の指摘に、彼女は驚いた様子だった。実際、私も輝美さんが喫煙している場面は一度も見たことがない。
「旦那から聞いたのか?」
「ううん」
と私。
「はじめて会ったときタバコ臭かったよ」
輝美さんはなにか思い当たる節があるのか、眉間に指を当ててどうやら反省しているみたいだった。
輝美さんと初めて会ったのは児童相談所の一室だった。
私の里親を希望する夫婦がいると、児童相談所の相談員さんに聞かされ、実際に面談することになったのだ。
私はてっきり施設かなにかへ送られると思っていたので意外だった。
里親と里子の仕組みについて相談員さんから説明を受けた。ことが進めば私は18歳までそのお宅に厄介になることができるらしい。
悪い話ではなさそうだけど、私は正直なところどっちでもよかった。
いま重要なのは、どこに住むかより、お父さんと離れることだ。歪んでしまった私たち親子にはそれが必要だと、幼心に理解していた。だから、誰と住むことになるとか、新天地でいじめられないかとか、そういったことはぜんぜん頭になかった。
私たち親子を、この呪いのような宿命から、引き剝がさなくては。その先のことまでは頭が回らなかった。
古ぼけた赤いソファーで相談員さんと待っていると、その女性は一人で部屋に入ってきた。
「お待たせしました」
美容室に行ったばかりなのだろうか。毛先の揃ったショートヘアーのクールな感じのする女性だった。なんとなく、明るいおばちゃんみたいな人が来ることをイメージしていたのでちょっと意外だった。
「川島いぶきさんね。私は河野輝美です。よろしくね」
河野輝美と名乗ったその女性は、私に握手を求めた。
私は彼女を見た。
見たところ30代前半から半ばだったが、その顔には幾層にも重なった疲れの年輪みたいなものが見てとれた。直感的にわかった。この人はお父さんと同じ、なにかにすり減った人間だ。
私はその手を取った。
「川島いぶきです」
ぎゅっと手が握り潰されるのを感じた。輝美さんは子供にするとは思えない力で、私の手を強く握った。手を離したあとも、その余韻がいつまでも残っていた。
「いぶきさん」
輝美さんは私が両親からもらった名前を呼んだ。
「私は音楽を聴くのが趣味なんだ」
輝美さんは、私の緊張をほぐそうと他愛のない雑談から始めた。
「気分がいいときとか、逆に落ち込んでいるときとかに好きな音楽を聴くの。ライブとかフェスにも行ったりする。汗だくになってタオルをぐるぐる回して大声で叫ぶと、とってもすっきりするよ。いぶきさんは趣味はある?」
「映画をよく見ていました」
私は過去形で答えた。
「サブスクでお父さんが帰ってくるまでのあいだずっと。休日はお父さんと。面白かった映画を教えてあげて一緒に観ました」
「そう、私も映画は好きだよ。でもドラマのほうがよく観るかな。サブスクにも何個か加入してるから好きなだけ映画は観れるよ。映画を観る以外では家でなにしているの?」
「掃除や洗濯をします。お父さんは疲れて帰ってくるから、家事は私がしたいからします。でも火と包丁は危ないから料理はさせてもらえないです」
「そうなんだ偉いね。私はつい洗濯物溜め込んじゃうんだ」
「お手伝いします」
「ありがとう。そのときは頼むよ」
輝美さんは言った。
「いぶきさんは私が怖くない? 気を付けてるんだけど、よく子供に怖いって言われるんだ。ああ、昔ここで働いていたときにね」
隣の相談員さんが口を開いた。
「河野さんは以前ここで私と一緒に働いていたのよ。怖く見えるけどとても信用できるいい人よ」
「怖くないです」
私は言った。この頃の私はいろいろな機能がマヒしていた。むしろこの人のほうが私を恐れているのでは思った。この短い会話の中でも、彼女が砂の城に触れるように、私が崩れ去らないよう慎重に話をしているのがわかった。大人だってなにかに怯えながら生きている。私はお父さんとのことでそれを知っていた。
「良かった。いぶきさんは私に聞きたいことある?」
私は無関心なりに考えた。
あるとすれば、なぜこの人が私を預かろうとするのか疑問だった。子供ができない体質とか?
と、夫婦と聞いていたのに旦那さんの姿が見えないことにいまさら気付いた。
私はたずねた。
「夫婦って聞いたんですけど、今日は旦那さんはいないんですか?」
「ええ、都合が合わなくて。次回の面談には同席するつもり」
嘘だ、と思った。
世間的には私は父親から性的虐待を受けた性被害者に分類される。だから、まずは女一人で様子を見ることにしたのだろう。それは私と接する児童相談所の職員さんがすべて女性であることからも察せられる。
夏休みが終わり、学校へ行くようになってもそうなるのだろうか。そう考えると少しげんなりした。
「次は必ず連れてくるよ、クマのような大男だけど」
私は
「クマ好きですよ」
と言った。
「それで、これは、もしあなたがうちに来てくれたらの話なんだけど」
輝美さんは言った。
「私たちはあなた以外にも里子を取ろうと思ってる。まだまだ先の話ね。いつになるかはわからないし、そのときはあなたにも相談もするけど、同居人が増える可能性についてはどう思う?」
一瞬脳裏に、お父さんを待つ、一人の生活が思い浮かんだ。
「平気です」
私は即答した。
「施設に入ると思っていたので」
輝美さんは「そうか」と言うと、電話をかけてくると言って部屋から出た。旦那さんにだろうか?
「さっきも言ったけど、河野さんは少し怖く見えるかもしれないけど、とても真面目でいい人よ。きっとあなたのことを第一に考えてくれるわ」
相談員さんが言った。
「べつに怖くなかったです」
「いまは喫茶店の店長さんなの。いぶきちゃんはコーヒー飲める?」
「飲めます。自分でもよく淹れていました」
私は私とお父さんとコーヒーの関係性について話した。
「そうなの。あとで河野さんにも教えてあげて。もし河野さんのおうちに行くことになればお手伝いができるかもしれないわね」
私は壁のカレンダーを眺めながら輝美さんの帰りを待った。8月。はじめてここに来てからまだその紙はまだ1枚もめくられていない。物事がジェットコースターみたいに私の周りを進んでいく。
輝美さんが部屋に戻ると、むわっとタバコの煙のにおいがした。
私は彼女にたずねた。
「あの、相談員さんに聞いたんですけど、喫茶店をやってるって本当ですか?」
「ええ」と答えて輝美さんはソファーに座った。「そうよ。私は喫茶店をやってる。あなたがうちに来ることになれば喫茶店の上の階に住むことになるわね」
そうして彼女はタブレットで喫茶店の店内の画像を見せてくれた。それから、私が住むことになるであろう居住スペースの画像も。
私は言った。
「私、コーヒー淹れられるんです。お父さんが帰ってくるのが遅いから、眠くならないように。インスタントじゃなくて、豆を挽いて、ドリップするんです。休みの日にはお父さんにも淹れてあげます」
「そう、じゃあ、時々手伝ってもらおうかな」
「はい」
私は画像の喫茶店でエプロンを付けて働く私を想像した。
「いぶきさん」
奥歯にものが詰まったような物言いで、輝美さんは私の名を呼んだ。
「私は、あなたをうちに迎えたいと思ってる。でもね、うちにくると校区の関係で小学校を転校しなくちゃいけないの。それは大丈夫? つらくない?」
私は目を細めた。べつにかまわなかった。お父さんと関係を持ったあの日から、私は私でないべつのなにかに入れ替わったみたいな感覚があった。今まで大切にしてきた人間関係が、まるで他人事みたいに、輝きを失っていた。
「はい。私は誰も私のことを知らないところに行きたいです」
「お友達とも離れ離れになるよ?」
「はい」
私は逆に彼女にたずねた。
「どうして河野さんは子供を預かろうと思ったんですか?」
率直な疑問だった。
「輝美でいいよ。旦那も河野だから」
輝美さんはそう言ったきり、しばらく考え込んでいたが、やがて覚悟を決めたみたいに居住まいを正した。
「いぶきさん。今日話してみて私は本当にあなたのことをうちに迎えたいと思うから、本当のことを言うね。こんなこと聞かされて困ってしまうかもしれないけど聞いてほしいの。さっきも言ったように私は昔、ここで働いていたの。とてもつらかったわ。最初は子供たちを救うとか、崇高な意思で働いていたけれど、いろんな子供や大人たちを見ているうちに耐えられなくなったの。不幸なんて言葉は本当は使うべきじゃないけど、いろんな不幸をいっぱい見た。それに押しつぶされた、本当は里親なんて名乗り出る資格なんてない人間かもしれない。いまあなたを迎えようとしているのは、そのときの後悔があるから。でも旦那と話してね、もう一度形を変えてやりなおそうと思った。だから、お願いするのはこっちのほう。お願い、いぶきさん。もしよかったら私たちの里子になってくれませんか?」
私はこの期に及んでも、どうなっても構わなかった。ただこんな私でも必要とされる場所があることに驚いていた。
私は彼女の独白と、手に残る感触に、この身を預けてみようと思った。私がお父さんとの関係を変えようとしたように、彼女も必死になにかを変えようとしている。私たちは同じ方向を見れる気がした。
それに、どうせどこでもいいと思っていたのだ、後悔もしないだろう。
なるようになれだ。
「よろしくお願いします」
私は輝美さんに頭を下げた。
それから今日に至るまで、輝美さんからタバコのにおいがしたことは、ただの一度もなかった。
三回目の面談は河野夫妻の自宅で行われた。
喫茶店への訪問に、私は少し胸が高鳴った。
輝美さんの旦那さんである草太さんの運転で、私は相談員さんと共に河野家の前を通った。輝美さんはクマみたいだと言ったが、草太さんは名前に見合った土臭さをもつたくましい男性だった。線の細いお父さんとは真逆のタイプだ。
「アレだよ」
草太さんは前を向いて運転したまま、左手を指さした。
その建物はガラス張りの壁面をレンガで囲んだ、いかにも喫茶店らしい店構えだった。ガラスにはスクリーンカーテンが掛けられていたが、中は電気がついていた。
車はその先の信号を左折し、店の裏側に回り込んだ。
私は車を降りた。裏側から見ると、味気ないコンクリートの雑居ビルに見えた。
促されるまま、そこだけ一般家庭のような玄関をくぐると、すぐ左手に階段があった。玄関の先にはのれんのかかった入り口があり、私はそこに通された。
のれんの先は以前見せてもらった画像の喫茶店だった。
店は休みのようで客はなく、体育館の舞台裏に来たみたいな気分だった。
「ようこそ」
カウンターで輝美さんがコーヒーを淹れながら待っていた。
「旦那と一緒で嫌じゃなかった?」
「おい、なんだよいきなり」
草太さんは笑った。
私は言った。
「嫌じゃないです」
草太さんとは二度目の面談ですでに一度会っていた。とはいえ、今回彼が児童相談所に一人で現れたときは、私も不安だった。
私自身、私が平気なのか、気丈にふるまっているだけなのか、測りかねていた部分はまだあった。大人たちがあんまりにも私を「男性恐怖症の少女」として扱うので、私もなんだかそんな気がしてきてしまったのだ。それを確かめるため、私は相談員さんを差し置いて自ら助手席に座った。
運転しながら、草太さんはよく喋った。お子さんはいないはずなのに、すごく子供と話すのに慣れている感じがした。
私は彼にたずねた。
「兄弟がいっぱいるんですか?」
大家族の長男。私の抱いた草太さんのイメージはまさにそれだった。
「いないよ。どうして?」
「小さい子の面倒を見るのが上手そうです」
「大学時代ボランティアサークルにいたんだよ。それでかな」
彼は言った。
「輝美ともそこで出会ったんだ」
「へー」
二人のなれそめなんてべつに聞きたくなかったので、私は適当に相槌を打った。
「俺も里子だったんだよ」
草太さんは言った。
「とても良くしてもらってね、実の子でもないのに大学まで行かせてもらえた。子供に恵まれなかったらしいんだ。これから行く俺たちの家も、元々俺の里親のお母さんの持ち物だったんだ。だからね、俺は俺のような境遇の子のために人生を尽くしたいんだ。きみ一人といわず何人もね。輝美とも話し合って決めたことだよ」
輝美さんの淹れたコーヒーはおいしかった。
「お店を見ていいですか?」
私は断りを入れて、店をぐるぐると見て回った。テーブルも椅子も床も木製の落ち着いた店内。ところどころ痛んではいるけれど、それもまた味があった。カウンターには入れさせてもらえなかった。もう少し大きくなったらここでコーヒーを淹れさせてもらえるのだろうか。
「上、紹介するから、来てくれる?」
しばらくして輝美さんが言った。
話し込んでいる相談員さんと草太さんを残し、私は輝美さんと喫茶店の勝手口ののれんをくぐった。
私たちは玄関脇の階段を登った。右を見ると、ぱあっと開けた空間が広がっていた。正面は右半分が壁になっていて、左半分はリビング。壁掛けのテレビの側面が見えて、その前には大きなソファーがあった。その左手にはダイニングテーブルがあり、カウンターのついた大きなキッチンがあった。
三人で住むには広すぎるくらいだった。そのうち私のようなカワイソウな子供が増えて、ここを埋め尽くすのだろうか。
「こっちは夫婦の部屋ね」
輝美さんは正面からの右半分を閉める壁を指さして言った。
「そこ以外は二階は自由に使っていいから。共有スペースね。お風呂とかトイレはキッチンの裏」
輝美さんはそのまま左手のほうに歩いて行って、私はその後ろをついていった。大きなドラム式洗濯乾燥機のある脱衣所の戸を開けて中を見せると、次に輝美さんはそのすぐ裏にある三階へと続く階段を登り始めた。
暗くて、狭くて、折れ曲がった、怖い階段だった。
階段の先はまっすぐ廊下が伸びていて、ホテルみたいに左右に6つのドアが並んでいた。
「ここが個室」
輝美さんは左手のドアを開けた。
「ここがあなたの部屋。の予定ね」
部屋はカーテンがかかっていないため光が溜まっていた。埃っぽくはなく、掃除されたばかりみたいだった。
東向きの窓から下を覗き込むと、喫茶店の看板が見えた。
私は窓を背にして部屋を見渡した。
お父さんと住んでいたときよりは狭いけれど、あまり部屋に物を置かない私には十分な広さだった。
ドクンと心臓が鳴るのがわかった。
お父さんとの生活を、私は捨てるのだ。
はじめて児童相談所に行ったとき、すでにその覚悟は出来ているつもりだった。お父さんと離れなければならない、それはわかっている。でも、新しい生活を始めるということに関しては、私はまだどこかで他人事だった。
私は8年間この部屋に住む。
ここを出ることになっても、もうお父さんと生活することはないのかもしれない。きっとお父さんは私を大学に入れようとするだろう。そうしたら私は一人で下宿することになる。大学を卒業して就職することになってもそれは同じだ。二人でコーヒーを飲んだあの日々はもう戻ってこない。もし、お父さんと再び生活することがあるとするならば、お父さんが年老いて私が面倒を見るときだろう。
私はお父さんを責めることなんてできない。
彼の苦悩と、お母さんへの思いを私は知っている。
仕方がなかったのだ。時が来たのだ。
私がお母さんそっくりに生まれた日から、お母さんが死んだその日から、こうなることは決まっていたのだ。
私はこの家で、新しい生活をはじめる。
後戻りは出来ない。そうゆう道の上に私はいる。
お父さんのいない道。
私は窓の外を見た。三階だけど、お父さんと住んだ高層マンションよりはずいぶん低い。通りに面して車が絶えず走って行く。音も振動もずっと近い。流れる車と時の流れが、私を取り巻く環境を運んでいく。
私は窓の外を見ながら声を殺して泣いた。あれから、どんな映画を観ても泣かなかったのに、自然と涙がこぼれていた。
自分で選んだくせに、ただただお父さんと離れ離れになるのがつらかった。
それから計四回の面談を経て、私は正式に河野夫妻の里子になった。




