11月:母と会う
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『由衣から聞いたよ。田辺さんと連絡が取れないんだって?』
その夜、お父さんからLINEが来た。
『メール送ったけど返信がない』
『メールだと気付かないんじゃないかな。僕から連絡してみようか?』
『いいよ。しつこいと思われたら嫌だし』
だがお父さんは本当に連絡を入れたみたいだった。お父さんも、私がお母さんのことを知りたいということに、思うことがあったのかもしれない。
翌日、早速メールの返信が来た。
件名 遅れてごめんなさい
『まずは返信が遅れてごめんなさい。メールなんて普段開かないもので気付きませんでした。メール拝見しました。連絡をくれて本当にありがとう。私もすぐにでもあなたと会いたいです。土日の午後であれば大丈夫ですので、予定を教えてください。社交辞令ではなく本当に』
土曜日。ソファーでテレビを観ていると、遅く起きてきた春美ちゃんが私の背後に立って、髪を手に取った。
「今日はいいよ」
私は言った。
「このままでいい」
春美ちゃんは「あっそ」と踵を返すと、
「朝から勉強なんてしてるんじゃない」
とダイニングで勉強している一孝に絡みに行った。
べつに早起きなんてしなくてもいいのに、今日は早く目が覚めてしまった。そして、することもないのでテレビを眺めている。幼いころ、よくお母さんのアルバムを見た。他の子たちにはいて私にはいないもの。悲しい気持ちはなかった。記憶の片隅に少しだけ残っているけど、はじめからいないようなもの。私にはお父さんがいた。他のどんな子に聞いても、私以上にお父さんと一緒に時間を過ごす子供はいなかった。私にはやさしいお父さんがいる。それで十分だった。
今日のグルメロケの番組には好きな芸人さんが出ていて、少しだけ時間を忘れられた。芸人さんは土曜の朝の番組だというのにボケまくって、お茶の間に笑いを届けた。私も、ゲラゲラとまではいかないけど、クスクスとかフフフと笑い声を上げていた。
「いぶきの笑い声を聞いてるとなんか安心するよ」
後ろから一孝の声がした。
「気持ち悪いこと言わないでよ」
私は言った。
「ごめん。気を付けるよ」
一孝は、見なくても落ち込んでいるのがわかるくらい、しゅんとして言った。
真に受けなくてもいいのに。
みどりちゃんがサッと作ったラーメンを食べて、私はクローゼットの前に立った。土曜日なのをいいことにずっとパジャマ姿だった。どんな服を着ていくかすごく迷った。いっそ制服を着て行こうかと思ったくらいだ。
「春美ちゃん、服選んで」
最後の手段を使うことにした。この呪文を唱えると、彼女はとても喜ぶ。春美ちゃんはひましているみたいだった。コンテストとアルバイトで多忙だった反動で、いまはアルバイトを少なめにしているのだとか。
春美ちゃんはストレートのデニムに、白いニットを合わせた。
「シンプルだね」
「美人はシンプルでいいのよ」
私は自転車に乗って家を出た。11月も半ば、まだまだ過ごしやすい季節だった。通り過ぎていく風が心地よく、私の髪をすいた。
人生は決断の連続だ。河野家の里子になると決めたこと、中学受験を決めたこと、お父さんの結婚式に出ると決めたこと、児童養護施設でボランティアをすることを決めたこと、コーヒーサイフォンを買うと決めたこと。どれも流されたり、捨て鉢だったり、ちいさなことだったりする。本当に大きな決断は四年ぶり二度目だ。私は自らの意思で、はじめてお母さんのルーツに触れる。それは私の人生においてとても重要なことな気がした。
自転車を漕ぐ足がおのずと早くなっていった。
私は叫びたい気分だった。
私は幼い私に言ってあげたかった。あなたの決断は決して間違っていないのだと。お父さんも私も、離れ離れになったけど、いまは前に進もうとしているのだと。だから私がしたことは決して間違ってなんていない。
間違ってなんていないんだ!
田辺静のマンションは一駅離れた郊外にあった。メールにあった住所の、高級そうなマンションの名前を確認し、私はオートロックに四桁の番号を打ち込んだ。心臓の止まるような思いで待っていると「どうぞ」という声と共に自動ドアが開いた。
私はエレベーターで四階まで上がった。
表札は「佐藤」だった。不安になりながらインターホンを押すと、すぐにドアが開いた。
そこにはエプロンを付けた女性が立っていた。大きな眼鏡をかけ、長い髪にはウェーブがかかっている。
「お久しぶりね、いぶきちゃん」
と、その女性は言った。
「さ、中に入って。クッキーを焼いたの」
私は促されるまま中に入った。
背後でカチャンとドアが閉まる音がした。
「ちょっと待ってね。旦那と子供を追い出すから」
長い廊下の先のリビングから、父親と遊ぶ小学生低学年くらいの少年の姿が見えた。
「来たわよ。さ、出てった出てった」
父親は子供の手を引き、どうやら外出するみたいだった。すれ違いざま少年が
「お姉ちゃんだあれ?」
と聞いた。
私は返答に困った。
「お母さんのお友達。ボクはお父さんと水族館でしょ?」
「うん!」
少年は母親とハグをして、父親に連れられ、部屋から出て行った。
「お邪魔してすみません」
「いいのよ、さっ、座って」
テーブルには出来立てのクッキーと、淹れたての紅茶が並んでいた。
私は椅子に座ると、静さんも私の正面に座った。
なにから話していいのか、内心あたふたしている私を、静さんは頬杖をついてじっと眺めていた。
「……そんなに似てますか?」
私はわずかに震える唇で言った。
「うん、似てる。瓜二つ」
静さんは言った。
「神様も罪なことをするのね」
「ええ、本当に」
「リラックスしてね。私はあなたに会えて本当にうれしいの。紅茶とクッキーも食べて」
「はい」
私はクッキーを口に運んだ、茶葉の細かく刻んだ紅茶のクッキーだった。噛むと控えめな甘さと、茶葉の香りが口の中一杯に広がった。
「そのクッキー、最初は聖子が作ろうって言い出したのよ。でもあの子いい加減でぜんぜんうまくならないから私が教えるために覚えたの。いまでは趣味のひとつね」
ほんのささいな情報だったが、それは確実に私の心の空洞だった部分に収まった。私はこれからお母さんに会うのだ。その実感が湧いてきた。
普段は全く飲まない紅茶は、緑臭い変わった味がした。
私は静さんにたずねた。
「母は紅茶をよく飲んだんですか?」
「そうね、ジュースとかコーヒーより紅茶を飲んでたイメージね。なにかとオーガニックなものが好きなのよ」
「あの、さきほど、お久しぶりとおっしゃいましたが、やはり小さいころに会ったことがあるんですか?」
「うん、何度もね。お風呂に入れてあげたこともあるのよ」
「ごめんなさい。なにも覚えてなくて」
「いいのよ小さかったんだから。それに覚えてないほうが幸せなこともあるわ」
「はい。薄情かもしれませんがそう思います」
静さんは紅茶を口につけて言った。
「で、なにが聞きたい? いくらでも付き合うよ。ううん、私がそうしたい」
私は早速たずねた。
「母とはどうやって出会ったんですか?」
「そうねえ、強烈な出会いはなかったけど、高校に入ってなんとなくグループがまとまりはじめて、その中の一人にいたって感じ。でもそのうちなんていうのかな、聖子が私に懐いた。いつもいつも『しず、しず』って私のことを呼んで、ついて回るようになったの。私のなにがそんなによかったのかしらねえ。でも私もこんな美人を引き連れている自分に優越感があって満更でもなかった。本当にいつも二人で一緒にいた。デキてるんじゃないかって噂されるくらい。秋だったわね、あの子に彼氏ができたの。それまでも何人も告白されては断っていたのに突然ね。それでも『しず、しず』って私から離れないから、私それでバイト始めたの。二人の時間を作るためによ」
静さんは笑った。
「母はモテたんですね」
「そりゃあもう、てゆうか、あなたなら身をもってわかるんじゃない?」
「私は女子校ですので」
「へえ? 確かまだ中学生よね。受験したの?」
「はい」
「もったいないわね」
静さんは言った。
「でも聖子も男は途切れるほうじゃなかったけど、あまり長く続いたためしは無かったわね。どっかで男にっていうか、恋愛っていうものに冷めているところがあった」
「私もそうかもしれません。彼氏はいませんけど」
「美人特有の価値観なのかもね」
私は言った。
「大学も一緒に行かれたんですよね」
「そうよ。でもついていったのは私のほうかな。聖子はなぜか勉強ができたから、私が教えてもらってた。しずと一緒のところがいいからって熱心に家庭教師してくれたわ。私も聖子の志望校のランクを下げさせるわけにはいかないからもう必死だった。なんとか合格したときは二人で抱き合って泣いたっけ」
静さんは遠くを見た。そこには部屋の壁ではなく、あの頃の色づいた記憶が鮮明に映っているのだろう。
「大学に入ってからは?」
「そりゃもう大変だったわよ。聖子はどんどんきれいになるし、男たちが群がっていたわ。あの子お酒が好きだし、どこにでもふらふらついていっちゃうから、私は保護者だったわね。でも私にもはじめて彼氏が出来て……聖子は気に入らなかったみたいだけど。でも私が悩んで泣いていると、私以上にわんわん泣くの、お酒のせいね。私も聖子が私のことで泣いていると、なぜか他人事みたいに冷静になれて、色々上手くやれたと思う。いまでもなにかに悩んでいたりすると、ふと聖子が横で泣いている気がするの、そうすると大抵のことは上手くいく気になる。あの子のおかげよ」
「卒業してからは親交はあったんですか?」
「ええ、卒業式でね、卒業してもちゃんと遊んでって約束させられたの。二人ともべろべろに酔っぱらって、何度も指切りしたわ。指切りなんてはじめてしたわよ。お互い新社会人で大変だったけど、約束通りちゃんと連絡を取り合って遊んだ。仕事終わりに居酒屋で待ち合わせたりね。それで仕事にも小慣れてきたころにね、聖子から好きな人が出来たって言われたの。いつも告白されてたから、ひょっとしたら自分からそんなこと言いだすのはじめてだったかもしれない。職場の先輩なんだけど職場恋愛って大丈夫なのかなって、いつになく弱気だったわ。私は、職場恋愛なんていまどき普通だし、モテるあんたと違ってモテない私は職場くらいしか出会いがないのよって、説教したわ。どんな人って聞いたら、真面目な人って」
「それが父ですか?」
静さんはうなずいた。
「誠二さんと付き合うようになって、すぐに紹介されたわ。確かに真面目で、不器用そうで、いままでの彼氏と違う感じだった。時々私たち二人で飲んでるときに呼んだりしてね。いままで聖子と彼氏が飲んでるところに私が呼ばれることはあっても、その逆はなかった。歴代の彼氏を見てきたけど、はじめてね、聖子を取られたと思ったのは。子供が出来たって聞いたときも驚かなかった。時間の問題だと思ってた。私も誠二さんのことは気に入ってた。どちらか片方じゃなく、本当に好き合っている二人だと思ったから。美男美女で絵になったしね。それでお腹が大きくなる前に結婚式をしようって大忙しでね、私もずいぶん駆り出されたわ」
……と、いうことは、私はお父さんの結婚式に出るのは二度目になるのか。そう考えるとなんだか変な気持ちだ。
知ってるかしら。そう言って静さんは私の目を見て、クスリと笑った。
「あなたの名前つけたの私なのよ」
一瞬、驚いて声が出なかった。私はなんとか絞り出した。
「私の……名前をですか?」
「そう川島いぶき。二人が真剣に子供の名前に悩んでて、しずも案を出してって言われて、ふと思いついたのよ。あなたたちよく伊吹山にドライブしに行ってたじゃない? 伊吹はどう? ほら聖子の娘で、聖なるいぶきって感じもするじゃない、って。そしたら誠二さんが聖なるいぶきじゃ漢字が違うよっていうから、じゃあひらがなにしたらって。まさか本当にそう名付けるとは思わなかったけどね」
静さんは言った。
「どう、いぶきちゃん。10年ちょっと生きてきて、自分の名前は好き?」
「あまり自分の名前を好きかどうか考えたことなかったです。体の一部というか。でも、私、自分がいぶきって呼ばれるのは好きです」
「良かった。こればっかりは赤ちゃんに聞いてもわからないし。少し気になってたんだ」
「良い名前をありがとうございます」
「よしてよ。あの二人が勝手に決めたことよ」
私は言った。
「差し支えなければ母が亡くなったときのことを聞いてもいいですか? 父は車の事故だとしか言いません。私もそれ以上聞けませんでした」
「大丈夫よ。あなたに比べたら私が話すことなんてなんでもないんだから」
そう言って静さんは話し始めた。
「私も人から聞いた話だけどね、聖子と誠二さんは二人で車に乗っていたの。3歳のあなたを託児所に預けてね。どこへ向かっていたのかは知らないわ。名古屋だし買い物か、水族館にでも行くつもりだったのかもしれない。日曜日だったわ。誠二さんは追い越し車線を走っていた、そこに突然、逆走してきた車が、車の右正面からぶつかってきたのよ。飲酒運転だったらしいわ。誠二さんは車が好きで左ハンドルの車に乗っていたの。それで助手席に座っていた聖子が大怪我をしたの。誠二さんも大怪我をしていたけど、自分で救急車を呼んで、それから私に電話してきたの。託児所に預けたいぶきを預かってほしいって。いままできいたことのない必死な声だったわ。聖子の葬式で、包帯まみれの誠二さんは毅然と式を執り行っていたわ。私はあなたの面倒を見ていた。あなたはなにもわからず、ただ場の空気に怯えていた。それから四十九日の法要以来、誠二さんとは会ってない。あなたのことがあるから本当は手伝えることがあるならなんでもしたかったけど、誠二さんの性格だとそれも受け入れないと思った。あなたたち二人のことが心配だった。いぶきちゃん、だから本当にあなたにまた会えて私はうれしいの。聖子にはもう会えないけど、あなたに会えてうれしい」
母と私の両方を知る、父以外では初めての人。静さんは母に似た私ではなく、私そのものを覚えていて、私に会えてうれしいと言った。だが彼女は知らない。私とお父さんに訪れたもう一つの試練を。でもそれを彼女に話す必要はない。
「お父さん再婚するんです」
私は言った。
「お母さんほどじゃないけどきれいで明るい人と」
私は言った。
「結婚式をやるんです。二人とも再婚なのに」
私は言った。
「いい年してばかみたいです」
「そうね、ばかみたい」
静さんは古い友人たちのために小さく微笑んだ。
私は再び彼女にたずねた。
「やっぱり私とお母さんは似ていますか?」
「うん、そっくり」
彼女は言った。
「でも中身はぜんぜん違う。いぶきちゃんはお父さん似ね」
心の底から欲していた言葉だった。
「ねえ、いぶきちゃん。お願いがあるの。一度だけ私のことしずって呼んでくれない?」
私は彼女を見た。母を愛した人。母が愛した人。父と母を祝福した人。
私はその名を呼んだ。
「しず」
静さんは照れたように鼻で笑って、紅茶のカップを片付け始めた。
「やっぱり似てないわ」




