10月:失恋
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「やーらかしたんだってー?」
その夜、さっそく春美ちゃんが私の部屋に入ってきた。申し訳ないけど、あんまり相手にしてあげられる状態じゃない。春美ちゃんはにやにやしているし、私はお笑いの動画を観るので忙しい。しかし、動画に集中できないのも事実だ。お笑いはある程度心に余裕があるときに観ないとその効力を失う。骨折を支える添木にはなるが、骨自体をくっつけてくれるわけではない。
「なになになに? なにしたの? 喧嘩したとは聞いたけど……てゆうか輝美さんめちゃくちゃキレてたウケる」
「なんでウケるのよ」
私はクッションを春美ちゃんに投げた。
春美ちゃんはクッションをキャッチして
「で、実際なにがあったの。一応輝美さんから慰めてこいって言われて来てるんだけど」
放っておいてと言いたいところだけど、家主からの派遣ならそれを無碍にすることもできない。あんまり覚えてないけど輝美さんもけっこう大立ち回りしていたし、第三者に任せるのがいいと思ったのだろう。それが春美ちゃんなのは、まあ、さておき。
私は由衣さんに言い放った「例の一言」を春美ちゃんに伝えた。
春美ちゃんは大笑いだった。
「あはははは! それはいいね! いやごもっとも。真実の斧だね」
「他人事だからって……」
「まあ、でも良かったよ。ほら、私もさ、一応最悪のケースとか想像してやって来たわけじゃん? それよりかずっとましだね」
「……一応聞くけど、最悪のケースってなに?」
「んー? いぶきちゃんがファザコンこじらせて『私のお父さんを取らないでこの泥棒猫!』」
「そんなこと言いません」
「でも、言ってるのも同じじゃない?」
そうだろうか、私は自分の放った言葉を反芻した。私はなぜあんなことを言ってしまったのだろう。あの女性に気に食わないところはない。お父さんの結婚にも。ただその直前に知った、私とお父さんの関係を、私の知らないところで共有されていたことには引っ掛かった。
私とお父さんの秘密の関係。
秘密を秘密でなくしたのは他でもない私自身だけど、誰にでも喋っていいことじゃない。現に私だって春美ちゃん以外の三人にはまだ話してない。話すような機会がない。でも、お父さんは由衣さんに話した。黙って結婚するのは確かに難しいかもしれない。年頃の娘を持つシングルファザーが、娘と別居するにはそれ相応の理由が必要だ。
私の知らないところでお父さんと由衣さんは距離を縮めていた。月に一度会っているのに、私は彼女の名前なんてただの一度も聞いたことがない。私は相談してほしかった。お父さんがそんな性格じゃないのは知っているけど、それでも。
「まあでも実際、結婚しようとしていた相手が、娘に手を出していたなんて知ったら、どうなるんだろうね。私には想像つかないな」
クッションを枕に床に寝っ転がって、春美ちゃんは言った。
「少なくとも相手はよっぽど覚悟の決まった人だよ。強敵だ」
「べつに敵だなんて思ってないけど」
「本当に? マリア様に誓える?」
「誓えます」
「だったら謝らないとね。本当のこと言ってすみませんって」
春美ちゃんは自分で言っておいて、ゲラゲラ笑った。
「春美ちゃん私を慰めに来たんじゃないの?」
「私にそんなことできるわけないじゃん。逆はあっても」
逆は逆でとても面倒くさい。
「いいじゃん。人間に衝突はつきものだよ。あの一孝とみのりちゃんだって衝突するだから。むしろ第一印象悪いほうが後々うまくいくんじゃないの? 知らんけど」
「適当」
「適当だよ。よく知らんし」
春美ちゃんは言った。
「いぶきちゃんはお父さんの結婚に反対?」
「反対じゃない。お父さんが一人で生活してるの心配だったし、パートナーが出来るなら安心する」
「その、由衣さんだっけ? 結婚相手がその人でも?」
「まだわからない。たいして話もせず台無しにしちゃったから」
「じゃあそこだね。その人と話さないとなにもかわらないよ。向こうもそう思ってるんじゃない? これはいぶきちゃんと由衣さんの、女の問題だよ」
「でもお父さんは私のこと叩いたよ。私、お父さんに叩かれたことなかった」
「私もないなー」
「春美ちゃん親いないじゃん」
こうゆう孤児ジョークは春美ちゃんだけじゃなくみんな言う。正直返しに困るのでやめてほしい。まあ、私も母親はいないけど。
「叩かれるようなこと言ったらそりゃ叩かれるんじゃないの? 親なんだから」
「それはそうだけど」
「そこに由衣さんは関係ないよ。お父さんが平謝りして終わり。長文のLINEとか来てるんじゃないの?」
おっしゃる通り、お父さんからはすでに長文の謝罪文が届いている。
「いぶきちゃん。私ね、悪いんだけどちょっとのあいだすごく忙しくなるの。だからこうゆうことがあっても、愚痴聞いてあげられないかもしれない。だから他のみんなも頼りなよ」
「そうする。今日もみどりちゃんにもギター聞かせてもらったし」
まあ、春美ちゃんだって輝美さんから言われて来ただけで、私から転がり込んで行ったわけではないんだけど。
「へえーいいなー。私も聴きたい。なんて曲」
「JAMって曲」
「イエモンかー。みどりちゃんも古いなー。私も好きだけどさー。いやでも再結成してるから古くもないのか」
「有名な曲なの?」
「有名だよ。一回解散して再結成したんだけど、そのとき紅白でやってるはず」
「へー」
紅白でやってるなら有名なんだろう。
私はみどりちゃんの演奏を聴いてから、スマホで何度もこの曲を聴いた。歌詞に耳を傾けていると、所々私とお父さんのことを歌っているのかと思えてくる。でもそれは違う。たとえ訴えているメッセージがべつのなにかを歌ったものでも、素敵な曲は人の心を我がことのように叩くのだろう。
「ねえ、春美ちゃん。誰にも聞けない質問していい?」
「私にはいいの?」
「うん、春美ちゃんは私が物心ついてからお父さんの次に一緒にいた人だから。でも答えが返ってこないのもわかってる。聞いてほしいだけ」
「いいよ。言って」
私は言った。
「お父さんは『私の中のお母さん』を抱いていたと思う? それとも『お母さんに似た私』を抱いていたと思う?」
「ゆがんでるね」
「でしょ?」
「きっとお父さんにもわからないよ。はっきりさせることじゃない」
「わかってる。でもずっとこの疑問が頭の中にあったの」
春美ちゃんは言った。
「いぶきちゃん。いぶきちゃんはね、失恋をしたんだよ。お父さんのお嫁さんになるなんてよく聞くせりふでしょ。愛情の混線だね。私は経験ないけれど、女の子はよく通る道なんだよ。ただちょっといぶきちゃんとお父さんを取り巻く環境が特殊で、それが長引いていただけ。異常なことなんてない。ちょっとファザコンこじらせてるだけだよ」
春美ちゃんは失恋と言った。
それが本当なら最初に切り出したのは私のほうだ。あの夏の日、児童相談所で、私はお父さんに別れを突き付けた。後悔はしていない。二人のためにそれは必要なことだった。だけど私はそんなことしたくなかった。仕方のない別れだった。
月に一度、喫茶店で面会しながら、お父さんは先に進んでいた。停滞する私と違い、恋人を作り、結婚の約束をして、式の準備を進めている。いつまでも二人の関係に縋っていたのは私のほうだった。今度は私が取り残された。お父さんもあのときそんな気持ちだったのだろうか。
「式、出なくちゃだめだよ」
春美ちゃんが言った。
「いぶきちゃんとお父さんの関係を変える、もしかしたら最後のチャンスかもしれないから」
「春美ちゃんも来て」
私は言った。
「席作ってもらう。ドレス作ってくれるんでしょ? 会場で着せて」
「困ったな」
春美ちゃんは言った。
「私の分のドレスも作らないと」




