10月:JAM
■
10月。
私はコーヒーミルに二杯分の豆を入れて、ゴリゴリとハンドルを回していた。電動のミルも便利だけど、こうやって手で回すほうがおいしくなる、気がする。
そうこうしているうちにフラスコのお湯が沸いたようだ。挽きたてのコーヒー豆をロートに入れて、それをフラスコに差し込む。タイマーを一分にセットして、浮いてきたコーヒーの粉を竹べらで沈めていく。タイマーが鳴ったら弱火にして、少し浸漬させる。最後にもう一度竹べらで攪拌する。コーヒーの粉が完全に底に落ちきったら完成だ。
私はコーヒーをカップではなく、新品のタンブラーに注いだ。時計を見る。あと15分もすればお父さんはやってくるだろう。
私はお店に降りると、タンブラーをドンッとテーブルに置いて、いつも時間きっかりにやってくるお父さんを待った。
輝美さんがコーヒーを二杯、テーブルに持ってきてくれて、私はそれに口をつけた。すると、カランコロンとドアのベルの音がして、お父さんは喫茶店に姿を現した。
後ろに、女性を携えて。
お父さんは私の向かいの席に座った。
「驚かそうとしたわけじゃないんだ。ただなんと言っていいかわからなくて」
お父さんは釈明した。
その可能性をまったく考えなかったかと言われれば嘘になる。結婚をするなら必ず相手はいるわけで、式場でいきなりはじめましてもないだろう。ただそれが今日だとは知らなかった。
「LINEでもいいからひとこと言ってよ。私、断らないよ」
「ごめん」
「あの、私が早く会いたいって言ったんです」
親子の会話に入り込んできた、私の義母になるであろうその女性は美しかった。
華奢の体に、肩まで伸びた髪を真ん中で分けて、瞳は大きかったけど、少し鋭い印象を受けた。
どうやらお父さんは面食いみたいだ。
お母さんとはまた違う美人。写真の中のお母さんはもっとやわらかく、女性的なフォルムでいつも微笑んでいた。
「気にしないでください」
私はにっこり笑えていたかはわからないけど、にっこり笑ったつもりで
「黙っていたことが気になっただけですから。その前にいい?」
私はお父さんにタンブラーを押し出した。
「誕生日おめでとうございます。中身は私の淹れたコーヒーですのであとで飲んでください」
「あ、ああ、ありがとう。大切に頂くよ」
お父さんは喜んではいるのだろうが、色々立て込んで、ギクシャクしていた。
でもタンブラーを受け取ると、すぐに一口飲んで、私に向かって微笑み
「ありがとう。おいしいよ。この前のとは違うんだね」
「うん。コーヒーサイフォンで淹れたの。この前画像送ったでしょ」
そのとき輝美さんが足りなかった一杯のコーヒーを持ってきて、その女性の前に出した。そしてお父さんに
「こういったことがあるなら、事前に言ってもらわないと困りますよ」
と釘を刺した。相変わらず仲が悪い。今日は一日機嫌が悪そうだ。
「いぶきさん」
輝美さんが背筋を伸ばして去っていくのを待って、その女性は口を開いた。
「私は誠二さんの会社の同僚で、宇佐美由衣と言います。36歳です。誠二さんとは昨年から真剣にお付き合いさせていただいています」
私は姑か。
と思いながら、先日の春美ちゃんとの会話を思い出した。
確かに私は、お父さんの保護者みたいだ。
由衣さんは言った。
「実は私も初婚じゃないんです。子供はいないですけど、それで誠二さんに相談に乗って貰って」
「はあ」
のろけ話ならよそでやってほしかった。事務的にことを運べばいいじゃないか。
「この人は『どこまで』知ってるの?」
私は自分の席で小さくなっているお父さんにたずねた。
「……全部知っているよ。……これもきみに相談してからが良かったね」
「ふーん」
と私は言った。
そして、神に誓ってそんなつもりはなかったのだけど、気が付くと由衣さんに
「娘と寝た人とよく結婚できますね」
と言っていた。あちゃー。
「いぶき!」
と言ってお父さんは立ち上がった。
次の瞬間には、平手打ちが私の顔に炸裂していた。
これには驚いた。
お父さんが私に手を上げることなど、天地開闢から一度たりともなかったのだ。
これじゃまるで、普通の親子みたいだ。
由衣さんはすがりつくようにお父さんを抑えた。
仕事中にすっ飛んできた輝美さんが、お父さんの胸倉を掴んだ。
私は泣きじゃくってみせてもよかった。
でも、それは、子供を振りかざしている。普段は大人ぶっているくせに、こんなときにだけ子供の面をするのはあまりに卑怯だ。
私はじりじりと痛む頬を撫でることさえできず、ただ石のように嵐が去るのを待った。
会はそれでお開きになった。
二階に上がると、上からかすかにギターの音色が聞こえた。
私はその音に誘われて、重たい足でまた階段を上がり、みどりちゃんの部屋を訪ねた。
ノックもせずにそっとドアを開ける。みどりちゃんは窓にもたれかかって、あぐらをかいていた。顔を伏せ、目を閉じ、弦の感触をひとつひとつ指で確かめるように、演奏をするでもなくはじいていた。
私は聖堂でマリア像を眺めるときみたいにみどりちゃんのことを見ていた。みどりちゃんは私がコーヒーを持ってくると、いつも恥ずかしがってすぐに演奏をやめてしまうけど、音に向き合う彼女は神々しかった。風に揺れたカーテンが、時折彼女の肩にかかる、そんなことさえ神聖で、声をかけるのが躊躇われた。
「わ」
みどりちゃんは唐突に私の存在に気付いた。
クールで不敵な顔をしていたつもりだったのだけれど、みどりちゃんは私を見るなりギターから手を離し
「どうしたの? 大丈夫?」
と言った。
私は言った。
「お父さんと初めて喧嘩しちゃった」
自分で言ってはじめてその事実に気付いた。一緒に住んでいたころ、お父さんはいい父親だったし、私もいい子だった。母親がいなくても二人でいるときはいつも穏やかな時間が流れていた。それは関係を持ってしまってからもそうだった。私もお父さんも変わってしまった。一人の生活に、賑やかな生活に。離れ離れになった私たちは自分たちでも知らないあいだに別人になった。たとえまた一緒に生活することになっても、あの頃の私たちはもういないのだ。
まったく、手は出した癖に、手を上げたことがなかったなんて、お笑いだ。
「そっか」
みどりちゃんはやさしい顔になった。
「うちはしょっちゅうしたよ」
父を失ったばかりの彼女は懐かしそうに言った。きっと喧嘩できるだけ私は贅沢なのだろう。
「どうやって仲直りするの?」
私はたずねた。なぜだろう。私はみどりちゃんの前だと、年相応の少女になれる。どうゆうわけか輝美さんにも春美ちゃんにも見せない顔を、彼女には見せることができた。
「なにもしなくていい。時間が解決してくれるよ」
「そうかな?」
世の中には最後の最後までいがみ合う事例がいくらでも存在する。
「そのタイミングが来るのを待つの。私ね、世の中のすべてのことはタイミングだって考えるようになったの。お父さんが死んだのも、ここに預けられるようになったのも全部。それが一生やって来ないこともあるけど……結婚式、行くんでしょ?」
私はうなづいた。
「なら大丈夫」
私よりもずっと傷だらけの、この人が言うなら、きっとそうなんだろう。
私はぐっと涙をこらえた。
「ねえ、なにか、弾き語りして」
私は言った。
「ええー?」
みどりちゃんは両手をぶんぶん振った。
「いやでも、私、古い曲しか弾けないよ」
「それでもいいから、みどりちゃんの一番好きな曲が聞きたい」
私がぐいっと身を乗り出すと、みどりちゃんはしぶしぶ、抱えていたエレキギターをアコースティックギターに持ち替えた。どちらも彼女の父親の形見だ。
「はあー」
みどりちゃんはなんでこんなことになったのだろうと大きくため息をついて
「『JAM』」
と曲名を口にした。
みどりちゃんは指で弦をはじき、イントロを弾き始めた。
生でギターのちゃんとした演奏を聴くのははじめてだった。楽器から直接聞こえてくる音は想像よりも大きく、軽やかだった。
みどりちゃんんは指で一本一本弦を上からはじいて、メロディーを奏でた。
みどりちゃんは歌い始めた。
少しハスキーな、いつもとは違う彼女の歌声。
やがて彼女は親指と人差し指で輪を作って、それまでよりも激しく弦を弾き始めた。
暗くて、投げやりで、でもどこか温かみのあるメロディーだった。
みどりちゃんはその叫びのような歌詞を、やさしく子供に訴えるように歌った。彼女の歌声は、私の体にしみこんで、同化し、溶けていった。
みどりちゃんは私の過去をなにも知らない。でもひとつひとつの歌詞が私の人生を語っているように感じた。私のことを歌った歌だと思った。
デン、デデデ、デン。
「ありがとうございました」
演奏が終わった。
「悲しいときは悲しい曲を聴くといいよ、なんとか効果って言ってそのほうが精神が安定するんだって、だから無理に明るくしようとしちゃだめだよ。心と体がびっくりしちゃう」
ギターを下ろすととみどりちゃんが言った。
心配そうに私を見つめるみどりちゃんを尻目に、私は自分のことなんて棚に上げて、どうかこの人に幸せななにかが待っていますようにと、そう神に祈らずにいられなかった。




