9月:春美
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その日は朝からちょっぴり憂鬱だった。
その原因は春美ちゃんとのショッピングの約束だった。なんでも、私が結婚式で着るドレスを製作するにあたって、その構想を練るためとかで、春美ちゃんは輝美さんから借りた車のキーをくるくる回して朝からご機嫌だった。
春美ちゃんとの買い物は楽しいけれど、いつも長くて、疲れる。
ましてやドレスなんて。
私がどれだけ学校の制服でいいと言っても、春美ちゃんは聞いてくれない。私が結婚式に出ると言ったその日から、春美ちゃんのエンジンはかかりっぱなしだ。
「絶対事故るな。事故るなよ。事故るな。絶対事故るなよ」
危ういドライバー一年目の春美ちゃんに、輝美さんがしつこく釘を刺しているあいだも、春美ちゃんは心ここにあらずだった。ずっとそわそわしながら、体を小刻みに揺らしていた。本当に大丈夫だろうか。
「じゃあ、しゅっぱーつ!」
「……しゅっぱーつ」
黙っていたらやるまで出発しなさそうなので、私は大人しく右手を上にかざした。そうして車はゆっくりと駐車スペースから出た。一回乗ったことがあるだけだけど、春美ちゃんの運転は本人の性格と違って落ち着いている。ハンドルを握ると性格が変わるなんてよく言うけど、春美ちゃんの場合良い意味でそうだ。私も走り出してちょっとしたらリラックスして、天井のグリップを掴んだりせずにすんだ。
春美ちゃんは私の知らない少しマイナーなバンドの曲を流し、時々口ずさんだ。たまに隣の部屋から聞こえてくるオルタナティブ・ロックというやつだ。
「高速乗っちゃうよー。わー教習所以来初めて」
なにやら不吉なせりふが聞こえたけど、高速に入っても春美ちゃんの運転は穏やかで、スピードを出したり、無理に追い抜いたりはしなかった。高速道路の高い壁の上から、昼前の高い太陽の光が降り注いで、ダッシュボードに小さな陽だまりを作っていた。
名古屋まで出た私たちは、車を有料パーキングに止めると、まずはカフェで昼食を取った。春美ちゃんは専門学校で毎日こっちに来ているので、このあたりの地理に詳しい。連れていかれたカフェのコーヒーもおいしかった。
お腹が満たされると、春美ちゃんは自分の頬を両手で叩いて気合を入れた。私はそれを見て、これから襲い掛かるであろう疲労の予感に尻込みをした。
私たちはショッピングビルやドレスの専門店をこれでもかとはしごした。
社交モードの春美ちゃんはどこの店でも店員さんとよく喋り、私は毎回ちょっと居辛い思いをした。買いもしないのに、山のようにドレスを試着させられたりして、なんだか申し訳ない気持ちになる。でも楽しそうなのは春美ちゃんだけではないようで、どこへ行ってもショップの定員さんたちは楽しそうに、私に服をあてがった。女の子はいくつになっても着せ替え人形が好きなのだ。
私は服に頓着がなかった。普段は無難なシンプルなものばかり着ている。だから失敗しないし、それを逆にオシャレだと言われることもある。べつに着飾ってもその先になにかあるわけじゃないし、可愛く見られたって良いことなんてなにもない。私がそんなだから、春美ちゃんは私の服を勝手に作るし、今日を絶好の機会と連れ出したんだろう。でもどんな素敵なドレスに袖を通しても、私は魔法にかかったみたいに、素敵な気持ちになることはなかった。
「やっぱり黒がいいね。いぶきちゃんは黒」
手芸用品の専門店で、すべすべした布を撫でながら、春美ちゃんは言った。
「白も捨てがたいけど結婚式だしね。黒でなるべくシンプルで体のラインがきれいに出るようなのがいいかな。ワンピースだね。肩まで覆うか、肩を出してボレロを羽織るか、悩みどころね。いぶきちゃんはなにか希望ある? 今日着たなかでどれが良かった?」
春美ちゃんには悪いけど、一日中連れまわされて、私はもうくたくただった。足はパンパンだし、ドレスを破かないように慎重に着たり脱いだりするのは案外疲れる。もうなんにでもしてくれって感じ。
「春美ちゃんの好きに作ってよ。私はそれでいい」
「お、それは責任重大だね」
「てゆうかドレス作るのってそんなに時間かかるの? まだ9月だよ? 式は年末なんですけど」
「作るだけならひと月もかからないよ。デザインを練るのに時間がかかるのよ。今日はその刺激を受けに来たの。あーそれにしてもいぶきちゃんのウエディングドレスを作るのがいまから楽しみ。絶対私に作らせてね、約束」
「まあ、時が来たら」
ずいぶん気の長い約束をして、私たちは店を出た。
春美ちゃんが河野家に来たのは、私より半年遅れの冬の日だった。
喫茶店での面談の日、輝美さんは私に春美ちゃんを家の中の案内をするように言った。私は大人たちを残して階段を登り、リビングダイニングを案内し、水回りの位置を教え、三階の個室に案内した。
個室に入ると春美ちゃんは窓を開けて、窓辺に座った。
「いぶきちゃん。私性格悪いんだ」
冷たい風にわずかに髪をなびかせながら、春美ちゃんは唐突に言った。
「それで、親戚中たらいまわし。だからいぶきちゃんも私が嫌になったら、草太さんと輝美さんに言って私を追い出してもらうんだよ? 私は慣れっこだから気にしないで」
「どんなふうに性格が悪いの?」
小学五年生の私はたずねた。このときはまだ、春美ちゃんの印象は明るくよく喋る人だなという程度だった。
「そうだね。口がね、悪いんだよ。壊滅的。人が触れてほしくないこととか、見て見ぬふりしていることとかを、気になったら口に出しちゃうの。小さいころは、どうして目の前で子どもが泣いているのかとか、大人が顔を真っ赤にしているとかがわからなかったな。けど、そうゆうことなんだよ」
「わかってるなら言わなければいいんじゃないですか?」
「それができないの。すごく楽しかったり、もやもやしてたりすると、自分を止められないの。情緒が狂ってるんだわ」
私は言った。
「私になにか悪口言ってみて」
「そんなこと言われたのはじめて」
春美ちゃんは笑った。
「じゃあ、いぶきちゃんはどうしてここに住んでるの?」
私は言った。
「お父さんと一緒に住めなくなったから。お母さんは昔に死んでる」
「どうしてお父さんと住めなくなったの?」
「私がお母さんとそっくりだから。私とお父さんが肉体関係を持ったから、それで児童相談所に行ったの」
「衝撃の理由だね。お父さんとのあいだに恋愛感情はあったの?」
「恋愛のことはわからない。でも苦しんでるお父さんを見過ごせなかった」
「お父さんのこと憎んでる?」
私は首を横に振って言った。
「かわいそうな人」
「いぶきちゃんは自分のことはかわいそうだと思う?」
私はまた首を横に振った。
「お父さんに比べれば」
「いぶきちゃんは頑丈だね」
「いろんなことがマヒしてるだけだと思います。お父さんと関係を持つ前はもっと泣いたりしていたと思います」
「私が元に戻してあげる」
春美ちゃんは言った。
「私ね、ミシンが得意なの。洋服をいっぱい作ってあげる。素敵な服を着ると女の子は魔法に掛かるのよ」
春美ちゃんが来る前の、河野夫妻と私の三人暮らしは、形の上では最初から上手くいっていたように思えた。三人の食卓は、草太さんのおかげで明るく賑やかだったし、輝美さんの料理もおいしかった。私はここでも料理をさせてもらえなかったが、代わりに後片付けを手伝ったりした。
エプロンを付けてお店の手伝いもよくした。空いた皿やカップを運び、テーブルを拭くのが私の仕事だった。輝美さんは小学生を店に出すことに、あまりいい顔はしていなかったけど、私は常連客から看板娘と可愛がられた。
あんまり頻繁に入っていると、こんなことしてないで友達ともっと遊んで来いと小言を言われるので、お手伝いは輝美さんの顔色を伺いながら週三回ほどに留めた。それでもクラスメイトと遊びに出掛けることは少なかった。夏休み明けの転校生だった私を、彼らはもてはやした。でも純真無垢な同級生たちのチカチカしたまぶしさが、私は苦手だった。
夕食後も、私が部屋に戻るまで、夫婦はずっと私と一緒に居ようとした。私はテレビやスマホがあれば無限に時間を潰せる子供だったけど、二人はいつも話題を探して、私を一人にしないよう必死だったように思う。
それぞれがそれぞれに家族というものを演じようとしていた。三人の生活は私にとって十分幸福だったけど、いつもどこかに薄暗い影があった。まるでセピア色のカーテンがかかっているみたいに、賑やかな団欒もどこか絵本の中の出来事のようで、現実味がなかった。
私達がちょっとづつ回りだしたのは春美ちゃんが入ってきてからだった。
春美ちゃんはとにかくよく喋る人だった。
思ったことはなんでもズバズバ言う人で、くだらない話をしていたかと思えば、私たちかりそめの家族が触れにくいところにずんずん踏み込んでくる。
「子供作らないの?」
「いぶきちゃん男怖くないの?」
「私達のことを娘とは呼ばないよね」
言いたい放題だ。
そのうえ春美ちゃんはお店の手伝いはおろか、家事などをまったく、もうすがすがしいほど手伝わなかった。勝手によそでアルバイトをはじめて不規則な帰宅時間で、夕食の時間もちっとも守らなかった。夜中だろうがミシンを鳴らし、きっと学校の課題かなにかだろうと溜飲を下げても、次の日には私にワンピースをよこしてくる。
でもそんな春美ちゃんがいたからこそ、キチンと家族をしなければならないと気を張っていた私達の肩の荷が、徐々に下り始めた。
彼女の奔放さに、河野夫妻は頭を抱えていたが、次第にその影響を受け、だんだんと私にもだらしない姿を見せてくれるようになった。ソファーでお腹を出して横になったり、薄着で歩き回ったり、私の前でお酒を飲む頻度が増えた。
輝美さんが私のことを時々「お前」と呼ぶようになったのも春美ちゃんが来てからだった。
お父さんが理想の父親を演じようとして壊れてしまったみたいに、人は少なからず誰かの前でなにかを演じているものだと思う。春美ちゃんは明るい父親であろうとしていた草太さんに怒らせるようなことばかり言い、厳格な母親であろうとしていた輝美さんをしつこくからかっては仲良く喧嘩した。二人の怒った顔を、私は春美ちゃんが来るまで見たことがなかった。どうしようもない奴だと内心思いながら、それでもみんな春美ちゃんが好きだった。春美ちゃんは私達が大事に抱えていた脚本を破り捨て、映画みたいな閉じた関係性を壊した。
彼女は自然体ゆえ、ここに流されてきた。きっといろんな人のいろんな大切なものを破壊して。でもその破壊こそが、私たちがいまひとつ深められなかった関係を縮めてくれた。彼女は見る人からすれば悪魔みたいに映るかもしれないが、私たちには必要な人間だった。
私は春美ちゃんが家にいるときは、服を作っているとき以外、いつも一緒にいた。どこに行くにも一緒だった。お風呂も一緒に入っていた。当時の私は、草太さんや輝美さんよりも、春美ちゃんによく懐いていた。同級生たちから感じる純真無垢な鋭い輝き。6つ年上の春美ちゃんにはそれがなく、彼女の隣は居心地が良かった。
春美ちゃんはよく眠れないと言って私の布団に潜り込んできた。なにかお話ししよ。いつもそう言って私を叩き起こした。ズタズタな恋愛をしては、私のベッドで泣いた。彼女は常にハイとローを激しく行き来し、その中間がなかった。明るく喋っているときもさみしそうで、いつもなにかに必死だった。
彼女の心の中の嵐に付き合っているうちに、私はずいぶん人間らしくなったと思う。春美ちゃんの感情の渦は、私の感情を引っ張り出し、一緒に怒ったり泣いたりできるようになった。
草太さんが長期に渡る単身赴任に旅立ってしまう日、私と春美ちゃんは玄関で草太さんに抱き着いてわんわんと泣いた。自分の体からこんなにも涙が排出されるなんて驚きだった。輝美さんもその光景を見て涙をこぼしていた。
女三人泣きながら草太さんの後姿を見送っていると、春美ちゃんが言った。
「さあ、女三人になったよ。好き勝手やろう」
そのせりふにカチッと歯車がかみ合う感じがした。
旅立っていく草太さんには悪いけど、私たち三人は、その日から本格的に回り始めたのだ。
帰りの車の中でうとうとしていると春美ちゃんが言った。
「再婚、本当はあんまりしてほしくないんでしょ?」
春美ちゃんはドレスのことばっかりで、この件について言及することは一度もなかったけど、いつかは来るんだろうなとは思っていた。
「べつにそんなことないけど」
私は言った。お父さんに切り出されたときもそうだったけど、私はこの再婚についてなんの反対意見もない。
「でも、してもいいけどべつにめでたくもねえ、って感じね」
春美ちゃんはくすくすと笑った。
「まるで、頑固おやじが娘を嫁に出すときみたい。立場が逆なのにね」
私は黙っていた。
何年経っても同じだ。春美ちゃんは普段どうでもいいことしか言わないのに、時々こうやって大きく踏み込んでくる。
これからいじわるを言うというのに、決まってやさしく目を細めて、まるで観音様みたいな微笑を浮かべる。
「はっきり言ったらいいのよ。私の男を持っていかれたくないって。いぶきちゃんはまるで、あなたのお父さんの母親みたいだから。だからいいのよ。そんなに物わかり良くしなくたって。最愛の息子の結婚に母親が口を挟むのはおかしなことじゃないし、娘が父親の再婚に駄々をこねるのも当然の権利だし。そんなこと親のいない私でもわかるよ」
なにか論理的な言葉で言い返してやりたかったけど、きっと春美ちゃんには届かない。倍になって帰ってくるのが関の山だ。
春美ちゃんは決して思ってもいないことは言わない。自分の心の芯からしか話さない。だから私がなにを言っても、彼女は自分の意見を変えない。四年間、本当の姉妹みたいに育った地田春美とはそういう人だ。
「私がやっぱり行かないって言ったら、ドレスどうするの?」
私は彼女にたずねた。
「作るよ」
と春美ちゃんは言った。
「もう作る気になっちゃってるからね。着る機会がなかったら私の結婚式まで取っておいて、そのときはサイズ直さなきゃいけないけど」
「春美ちゃん結婚できるの?」
私が言うと、春美ちゃんはいつもの雰囲気に戻って
「できる気がしねえ」
と笑った。




