第1話 帰還勇者(自称)、深層でバズる
朝の探索者ギルドは、いつもどおり騒がしかった。依頼ボードの前では取り合いの小競り合い、受付前には列、奥では報告を終えた連中が武勇伝を盛っている。
その中で、わざわざ目立つ言葉を選ぶ男が一人。
「七瀬、いつものやつ頼む」
カウンターに肘をつき、少しだけ顎を上げる。声は落ち着いているが、意図的に周囲へ届く音量だ。
「“いつもの”って便利な言葉ですね。具体的にお願いします」
七瀬あずみはにこやかに微笑んだまま、手元の端末から視線を上げない。やさしい声音だが、逃がさない圧がある。
「深層単独。危険度は……まあ、俺基準で中くらい」
「一般基準だと最上位です。あと単独は推奨されてません」
「帰還勇者だからな。これくらいこなさないと示しがつかない」
一拍の間。
周囲で紙をめくる音が、ほんの少しだけ止まった。
「まだ言いますかそれ」
あずみは苦笑を深めた。否定はしない。ただ、受け流す。その距離感がありがたいような、刺さるような。
背後から小声が漏れる。
「また言ってるぞ」「強いのはマジなんだよな」「でも帰還勇者ではないだろ」
聞こえないふりは、もう慣れている。
分かっている。分かっているけど。
(……こう言っておかないと、形にならない気がするんだ)
自分の中にある“何か”は、説明がつかない。だから名前を貼る。帰還勇者。雑でもいい、枠が欲しい。
「受理します。深層調査、単独。自己責任で」
「ああ」
端末にサインを入れ、背を向ける。視線が刺さるのはいつものことだ。
(俺は普通の探索者じゃない)
そう思った瞬間、少しだけ楽になるのも、いつものことだった。
ダンジョンの入口は、昼でも薄暗い。外の光が一歩ごとに削られていく。
石の通路に足を踏み入れた途端、世界の輪郭が変わる。
音が沈む。匂いが薄れる。その代わりに、別のものが浮かび上がる。
「……右、三。奥に二。重いのが一体」
口に出す必要はないが、出した方が整理できる。
魔素の流れが、見える。
目で見るのとは違う。触れているのとも違う。空気の中を走る“筋”があって、その濃淡が生き物の輪郭を描く。
(音じゃない。匂いでもない。ただ“流れ”がある)
足音を消す必要はない。向こうはもう気付いている。
角を曲がった先で、牙の並んだ口が開いた。
「遅い」
言葉と同時に、体が動く。
振りかぶる前に、終わっている。刃は最短距離をなぞり、関節の弱い角度に滑り込む。骨が外れる感触。肉が裂ける音。
一体、二体、三体。
最後の一体が飛びかかる頃には、もう倒れている。
(遅い。全部、遅い)
息は上がらない。鼓動も乱れない。
(この感覚がある限り、負ける気がしない)
だからこそ、怖いとも思う。
どこまで行けるのか、自分でも分からないからだ。
中層を抜け、空気が一段落ちる。
温度が下がる。壁の色が濁る。遠くで低い唸りが続く。
「ここから先は……普通はパーティー推奨、か」
独り言は、誰にも届かない。
「まあ、普通じゃないしな」
自嘲のつもりはない。事実だ。
足を踏み入れる。深層。
魔素の流れが、濃い。太い。絡み合っている。
(……落ち着く)
理由は分からない。なのに、ここに来ると呼吸が整う。
奥で何かが動いた。
視界に入る前に、分かる。
「でかいな」
曲がり角を抜けた先で、それは姿を現した。
黒い外殻。幾つもの腕。床を踏むだけで石が軋む。
咆哮。空気が震え、視界が揺れる。
「でかいだけか……?」
踏み込み。
次の瞬間、床が砕けた。
「いや、違うな。速い」
振り下ろし。予測どおり。横薙ぎ。予測どおり。
(来る。左、振り下ろし。次に横薙ぎ)
体はすでに反応している。跳ぶ。潜る。滑り込む。
刃が外殻を叩く。硬い。だが、割れないわけじゃない。
関節。接続部。流れの薄い場所。
(分かる。全部、分かる)
視界の端で、別の光がちらついた。
小さな灯り。規則的に揺れる。
(……人?)
一瞬だけ意識を割く。だが、戦闘は止めない。
踏み込み、回転、斬り上げ。
黒い巨体の軸が崩れる。
最後の一撃。急所に刃を差し込む。
鈍い音とともに、巨体が沈んだ。
「……え、今の……ソロ?」
背後から声がした。
振り返ると、小型のカメラと、それを構えた女性が立っている。ライトがこちらを照らし、まぶしい。
「見てたのか」
「見てたっていうか、配信してますけど!?」
「配信?」
聞き慣れた単語のはずなのに、ここでは妙に浮く。
彼女は慌てて端末を操作し、こちらと画面を交互に見た。
「ちょっと待って、あなた登録データにない……帰還勇者?」
「……ああ、まあな」
口が勝手にそう言った。
間。
彼女の顔色が、はっきりと変わる。
「違う……該当なし。あなた、帰還してない」
静かに言い切られた。
逃げ道は、ない。
「……」
(来たか)
いつかは、こうなると思っていた。
名前でごまかしてきたツケだ。
言い返す言葉を探すより先に、空気が震えた。
新しい流れ。複数。
「下がってろ」
「え?」
振り向く間もなく、影が広がる。
複数の魔物が、通路の奥から溢れてきた。
「危ない、囲まれて――」
「下がってろ」
同じ言葉を、少し強く言う。
彼女の足が一歩、引く。
それでいい。
(見てるなら、分かるだろ)
踏み込む。
一体目の首を落とし、二体目の脚を払う。三体目の牙を躱し、腹を裂く。
間を置かない。考える前に動く。
血が飛ぶ。床に叩きつけられる音。空気が重くなる。
だが、呼吸は乱れない。
(肩書きじゃない。中身だ)
最後の一体が、逃げるように後ずさる。
追わない。必要がない。
静寂が戻る。
カメラのライトだけが、やけに明るい。
「……おかしい」
彼女が呟いた。
「帰還勇者じゃないのに、帰還勇者より強い」
「さあな」
本当に、それしか言えなかった。
彼女は画面を見て、息を呑む。
数字が、跳ね上がっているのが分かる。
「これ、絶対バズる……」
「やめてくれ」
「無理です!」
即答だった。
苦笑が漏れる。
(面倒なことになる)
頭ではそう思う。
けれど。
(……少しだけ、悪くない)
誰かが見ている。
名前じゃなく、動きで。
その事実が、胸の奥を少しだけ軽くした。
ダンジョンの深層で、光が一つ瞬く。
その向こうで、無数の視線が集まり始めていた。




