第58話 “抉る消月”
今から10年前の事だ。
当時、島にやって来たばかりだった自分は、右も左もわからないまま、日諸木学園の教師という仮初の役割を与えられた。時期こそ違うものの、自分と同じく島に送り込まれたあの女は、機関から役立たずの烙印を押され、本来与えられるはずだった教師という役割から寮の管理人へと変更された。今でも相変わらず何もしない女ではあるが、最近は一つ役に立った事がある。あの女がいなければ、あのガキは自分が預かる事になっていただろう。感謝はしないが、礼ぐらいは言ってやってもいい。
「あなたが未鏡君ね?」
それが、自分が聞いた最初の彼女の声だった。
彼女―――星町幸穂は、自分が外の人間だと知っていながらも、他の島民と同じように接してくれた。最初はそれが当たり前だと思っていたけれど、数日も島で暮らしてみて気づいた。島民にとって、島の外の人間というのは、この島が抱える不思議以上に異質な存在らしい。自分が受けた迫害は、あのガキほどではなかったものの、決して癒える事のない傷を心に刻んでしまった。
だからこそ、幸穂の存在は大きかった。時に優しく、時に厳しく接してくれた彼女は、自分にとってまさに女神のような存在だったといえる。
彼女はそんな自分の想いに気づいていたとは思うが、決して口にはしなかった。自分も決して愛してると言おうとはしなかった。それは互いのけじめのようなものだったけれど、何より幸穂には息子の忠幸がいた事が大きかった。
そして、彼女は神さびとの戦いで受けた毒で一線を退き……突如、自分の目の前から姿を消した。
その後、彼女がどうなったのかはわからない。息子の忠幸も知らないのだから、彼女は誰にも言わずに去ってしまったのだろう。恐らくは、死に場所を求めて。
その事を、自分は酷く悲しんでいる。せめて、自分にだけは知らせてほしかった。身勝手な願いではあるけれど、自分の想いを知っているのなら、そうしてほしかった。
あれから10年。幸穂の死後、姓を変えた自分は、今でも彼女を想っている。その証明として、忠幸を引き取り、彼女の代わりに愛し、育てているのだ。
「―――以上が、貴様に与えられた任務だ。自分に与えられた役割を果たせ、エージェントC31」
淡々とした声が、受話器のむこうから聞こえてくる。
命令は単純。人体実験に必要な子供を二人攫って、神奈裸備島へ向かうだけ。
「了解。エージェントC31、任務受理確認」
迷いなく答える。
たとえそれが、愛した女性の残した息子を、生贄に捧げるような命令だとしても。
自分が愛したのは彼女であって―――彼女の息子ではないのだから。
☆ ☆ ☆
「またここに来る事になるとはなぁ……」
鎮守の森の奥、こじんまりした丘に開いた穴の前で、守哉は呟いた。
この穴の手前の大きな木の根元に、幸穂は眠っているはずだ。荒霊化した場合、肉体がどうなるかは知らないが、周囲に異質な気配が漂っている以上、間違いなく幸穂はここにいるだろう。
「ニャ。幸穂、守哉を連れてきたニャ」
藤丸が木に向かって言うと、木の根元から強い異質な気配が立ち上り―――女の姿を形成した。
「この人が……」
「そうだニャ。俺のご主人、星町幸穂だニャ」
腰まで届く赤い長髪。若干たれ気味の穏やかな目。以前見た時と違い、腐敗している部分はなく、服装も赤い和服に変化している。
七歌と同じ、赤い和服。そういえば、栄司も赤い和服を着ていた。この和服には、何か意味があるのだろうか。
「あなたが未鏡守哉君ね?百代目神和ぎにして、磐座機関の回し者」
自分の事を知っている。いや、それはともかく、神和ぎである事も、磐座機関の事も知っている……?
「……あんた、何者だ」
警戒するように守哉の目が細まる。それに対し、幸穂は微笑んで答えた。
「私は星町幸穂よ。忠幸の親にして、元九十五代目神和ぎ。そして今は、荒霊」
「俺の先輩って事か」
「結果的にそうなるわね。まぁ、確実にあなたよりも強い自信はあるわ」
守哉は笑って答えた。
「よく言うよ。今は荒霊だろ?荒霊が神和ぎに敵うわけがない」
「そうでもないわよ。荒霊はね、生前持っていた神力の量に応じて特殊能力を持っているの。たとえば藤丸は、背中の毛を針にして飛ばす、とかね。私の場合、生前の契約を引き継ぐってだけだけど」
契約とは、天照大神との契約の事だ。確か、代償を払う代わりに、その代償に見合った願いを叶えるとかいう……
「ずいぶんシンプルな能力だな。そんなんでよく自信が持てるもんだ」
「私も甘く見られたものね。あなたこそ、ずいぶん自信満々じゃない。勝算でもあるのかしら?」
勝算……という事は、どうも戦闘は避けられないようだ。守哉は身構えると、頭の隅でイメージを練りだした。
「別に、勝算があるわけじゃない。でもな、俺は今、むしゃくしゃしてんだ。手加減はできないぜ」
不敵に笑う。すでにイメージは完成している……後は、相手の出方を見て放つだけ。
対して、幸穂も微笑んだ。微笑みながら―――自らの喉元に、手を伸ばす。
「そうなの。じゃあ、私も手加減はしないであげるわね」
その喉元には。
歪な星型の、火傷の痕―――
「―――風烈弾ッ!!」
危険を察知した守哉は、下手投げのように腕を振った。何も持っていないはずの手の平から、風の弾丸が飛び出していく。
守哉が新たに編み出した縛名・風烈弾は、着弾の際に風の刃を周囲に撒き散らす言魂だ。その威力は、トヨとの訓練の際に実証済みである。
しかし、風の弾丸は幸穂に着弾する寸前にその姿を消した。一瞬、幸穂の眼前の空間が歪む。
「いい判断ね。でも残念、もう抜刀しちゃった」
幸穂の声。余裕の色を含むその声に、守哉は舌打ちした。
見ると、幸穂の手には小さな果物ナイフが握られていた。しかしその刃は、重油のように黒く、ところどころが光り輝いている。
まさかとは思うが、縛名を一瞬で無力化するほどの力は、どう考えても―――
「……魔刃剣……!」
「そう。私の能力は、生前の契約を引き継ぐ事。そして、私の生前の契約はね―――」
幸穂がナイフを突きつける。真っ直ぐに、守哉を狙い打つように。
「私の意志で、常に逢う魔ヶ時の恩恵を受けられる、という事。つまり私はね、逢う魔ヶ時でなくとも、魔刃剣を使う事ができるって事なのよ。ご理解いただけたかしら?守哉君」
一瞬、ナイフの刃が光を増した。守哉の背筋を悪寒が奔り、気づけば本能的にその場を飛びのいている。
瞬間、守哉が一瞬前までいた空間が球状に抉れた。突如何もなくなった空間に、周囲の空気が入り込んでくる。
「なっ……!」
「気をつけないと危ないわよ。私の魔刃剣―――消月の基本能力はね、絶対真空っていうちょっぴり危なっかしいものなの。何でも抉り取っちゃうのよ」
身体強化の言魂を発動し、幸穂から逃げるように木々の合間を駆け抜ける。その後を追うように、木が、草が、空気が抉り取られていく。
まさか、荒霊が魔刃剣を使えるとは思っていなかった。逢う魔ヶ時の恩恵を受けられるという事は、幸穂は言魂も使えるという事だ。しかも、逢う魔ヶ時の恩恵を受けられる以上、神力はほぼ無限。更に、自分が使う言魂よりも遥かに強力……!
「くそっ!だからって、そう簡単に負けてたまるか!」
叫び、イメージする。こんな事もあろうかと、島に帰ってきてからというもの、暗い気持ちを押し殺して縛名の練習をしてきたのだ。こんなところで負けるわけにはいかない。
「―――雷刃っ!」
守哉の掌から雷撃がほとばしる。雷撃は一直線に幸穂へと伸び―――命中する直前で消し飛んだ。
「それで縛名のつもり?笑わせるわね、百代目神和ぎ!」
幸穂が嘲笑し、ナイフを振るう。その動きに合わせ、空間を抉り取る見えない力が守哉に向かって直進する。咄嗟に前転して逃れるが、靴の裏を絶対真空の力がかすめた。空気が何も無い空間に流れ込み、一瞬足が引きずられる。
「しまっ……」
「―――チェックメイト!」
幸穂の声。咄嗟に上体を起こした瞬間、突然守哉の上に現れた五本の剣が守哉のパーカーのすそを串刺しにした。
これでは身動きが取れない。仕方なく、守哉はパーカーが引き千切られるのもお構いなしに横転した。更に現れた剣が守哉を貫かんと降り注ぐが、辛うじて回避に成功する。
「縛名か……!あんたも縛名を知ってるのか!?」
「何言ってんの、縛名なんて神和ぎなら使えて当たり前でしょう。自分だけの力とでも思っていたのかな?んん?」
踊るように身体を捻る。周囲の空間が抉られ、木の幹を失った大木が倒れた。
幸穂の絶対真空の効果範囲は意外と狭い。何とか回避は可能ではあるが、回避に集中してばかりでは攻め手がない。何とかして攻勢に転じなければ勝ち目は薄いだろう。
(でも、どうすれば……!)
絶対真空には隙がない。何度か言魂を放ってみるが、ことごとく無力化させられてしまう。しかも発動にタイムラグが無い上、同時に別の空間を抉り取る事も可能のようだ。
考えろ。何か方法はないか。何とかして、幸穂にダメージを与える方法は―――
(そうだ……こうなったら、敵の能力の限界に賭けるしかない!)
いくら同時に別の場所を攻撃できるとはいえ、限界はあるはずだ。そこに付け入る隙があるはず―――
「―――風烈弾っ!」
再び風烈弾を投げる。しかし今度は一度だけではなく、何度も幸穂に向かって投げつける。
「無駄よ、その程度!無駄無駄無駄なのよぉっ!」
幸穂の嘲笑と共に、幸穂の周囲に絶対真空の力が乱発される。大量に空間が抉り取られてしまい、幸穂の周囲を囲む木々が全て倒れていく。
「それを待ってた!」
守哉の声が言魂となり、木々の倒れる方向が一点に集中する。幸穂を囲む木々が、全て幸穂に向かって倒れていく。
「やるわね。でも、この程度なら!」
幸穂は、自らに倒れこんでくる木々さえも抉り取る。巨大な絶対真空の力が幸穂の上空に生まれ、そこに大量の空気が流れ込んでいく。
しかし、幸穂は気づいていない。今、幸穂が抉り取ったのは、自分に重なるであろう木々の上部だけだ。残った下部は、幸穂の視界を塞ぐように倒れこんでいる。
(見失った?でも、何をする気―――)
一瞬、幸穂が守哉を見失う。その瞬間を守哉は見逃さなかった。
「―――風烈弾っ!」
木々を乗り越えて、幸穂の眼前に躍り出る。それに幸穂が気づくよりも早く、守哉は特大の風烈弾を投げた。
「そんな奇襲で……!」
しかし幸穂の対応も早い。風烈弾が風の刃を撒き散らす寸前に、すぐさま絶対真空の力を発動し、破裂しかけた風烈弾を消し飛ばした。
だがそれは計算済みだ。守哉の目の前に現れた真空の空間は、周囲の空気を吸い込まんと引き寄せる。そして、その吸引力は滞空する守哉の身体を急速に幸穂へと近づけていく。
「くっ……!」
「―――爆弾パンチ!」
咄嗟に幸穂がナイフを振るう直前、守哉は幸穂の懐に潜り込んだ。
瞬間、二人を包み込んでしまうほどの爆風が、鎮守の森に吹き荒れた。