第118話 帝都の朝は早い
「……さて。暇だな」
リリィは朝から元気に学校へ、ジークリンデは魔法省へ出勤。二人がいなくなると家の中がやけに静かに感じる。
リリィを拾う前はこれが当たり前だった。なのに今じゃこの静けさが少し物足りない。慣れってのは怖いもんだ。まさかリリィを拾って、ジークリンデと一緒に暮らす日が来るとはな。
若い頃の俺は、ただ退屈が嫌いで、刺激だけを求めて生きていた。帝都を飛び出したあの日は二度と帝都に戻るつもりはなかったし、荒くれ者の街で過ごす日々にそれなりの居心地の良さを感じていた。
「……それが今じゃ、このザマか」
穏やかな朝に一人、コーヒーなんか淹れてる自分が笑えた。
独りは気楽だったがそれだけだ。リリィと暮らすようになって初めて、静けさよりも誰かがいる温かさの方が心地いいと知った。
ジークリンデは「私は学生のままだ」なんて言ってたが、きっとあいつも変わっていくだろう。
人は、環境が変われば勝手に変わるもんだからな。
とはいえ──
「名家の娘に、うちの飯は質素すぎるかもな」
──いきなり変わりすぎるのも良くないか。
冷蔵庫を開けて溜息が出た。昨日の残り物と干からびた野菜。フロイド家でこれを出したら間違いなくシェフの首が飛ぶ。
俺とリリィはゼニスでの雑な暮らしに慣れてるが、ジークリンデにこれを食べさせるのは流石に気が引ける。今朝のベーコンエッグサンドだってアイツの口に合ったかどうか。
「そういやアイツ、卵のこと結構気にしてたな……」
朝食の後「次は割らない」だの「練習しておくべきだった」だの、小声でぶつぶつ呟いてたのを思い出す。別に気にしなくてもいいのに、真面目というか、不器用というか。
……あの横顔が少しだけ胸に引っかかっていた。
「よし、今夜はちゃんとした飯でも作るか」
決めたら早いのが俺の長所の一つだ。
財布を掴み、上着を羽織って外へ出る。もうすぐ夏本番だがこの時間はまだ少し肌寒い。ひんやりした空気が肌に張り付いて、街に降りる頃に身体は完全に起きていた。
◆
──帝都の朝。
ゼニスとはまるで違う、穏やかで柔らかな生活の匂いが街に満ちていた。パン屋からは香ばしい匂いが流れ、行き交う人々は皆、どこか幸福そうな顔をしている。学校に向かう子供、仕事に急ぐ大人、散歩を楽しむ老夫婦──ゼニスの喧騒を知る身としては、同じ街でもまるで別世界のように感じる。
「あーい、らっしゃい! 安くしとくよー!」
肉屋の軒先で、髭面の親父が声を張り上げていた。さっきからやたらと帝都を持ち上げてたが、勿論帝都にもこういう奴はいる。見てくれだけならゼニスの方が似合ってるようなのが。
「おう、ヴァイスじゃねぇか。珍しいな、朝からどうした?」
「ちょっと腕を上げようと思ってな。今日は奮発するぜ」
「へぇ、リリィちゃんの為か?」
「まあ、そんなとこだ」
ジークリンデの名は出さなかった。それを言うのは二人で来た時でいい。そんな時が来るのかは知らないが。
「ならこのスネ肉がいい。少し高いが味は間違いねぇ。貴族も買ってくぜ」
「貴族、ね」
俺には似合わない単語だが、今だけは悪くない響きだ。アイツの舌を満足させなきゃならないからな。
肉を包んでもらい、次は八百屋へ。
山のように積まれた野菜の前で、腰の曲がった婆さんがぼそぼそと声をかけてくる。
「おや、今日は何作るんだい?」
「煮込みだ。根菜と、ハーブを少し買いに来た」
「いいねぇ、誰かの為に作るご飯だ」
「どうしてそう思う?」
「おまえさんがハーブなんぞ買いに来た事が今まであったかえ?」
図星すぎて何も言い返せねえ。にやりとする婆さんに思わず苦笑いが漏れた。臭い肉を臭いまま食うのがゼニス流。臭み消しなんざあの街じゃ何の価値もない。
意味ありげな視線を背中に感じながら店を後にする。
袋を提げて歩く帝都の通りは、いつもより眩しかった。人の声も、馬車の音も、今日は妙に心地いい。平和で、穏やかで、長らく味わうことのなかった普通の生活がここにある。
「……あいつ、喜ぶといいけどな」
気づけば、そんな言葉が自然と口から零れていた。




