第119話 ヴァイス、意外な才能
夕方。
煮込みの甘い香りがキッチンに満ちていた。肉と野菜が柔らかく溶け合い、食欲をそそる湯気が鍋の縁から立ち上る。
「……上出来だな」
思わず笑みが漏れる。
料理本を角が擦り切れるほど読んだ甲斐があった。意地でも成功してやろうという奇妙な意欲が俺を動かしていた。
「ぱぱー、おなかすいたー」
リリィの声。続いて、廊下を駆ける足音。どうやら昼寝から目覚めたらしい。
「リリィ、今日はご馳走だぞ」
「ごちそー?」
「いつもより美味しいご飯ってことだ」
ご馳走と聞いたリリィが足元で跳ねる。騒ぎを聞きつけて、リビングにいたくまたんもやって来た。そのまま即席の追いかけっこが始まり、バタバタとリビングへ駆けて行く。子供の行動はいつだって予測不可能だ。
「いい匂いだな」
背後から静かな声。
振り向けば、ジークリンデが魔法省の制服を緩めながら珍しそうに鍋を覗いている。丁度帰って来たらしい。
「気が向いたんでな。試しに作ってみたらこれだ。料理人にでもなればよかったぜ」
「ほう……それならうちのキッチンで働いてみるか?」
挑発めいた微笑みを残し、ジークリンデは自室へ戻っていく。
あの余裕ぶった態度が妙に癪だが──まあいい。味で黙らせてやる。
リビングではリリィとくまたんがソファの上でじゃれていた。俺が見る限り、リリィとくまたんの戦闘力は拮抗していて、お互いに遠慮なく全力をぶつけ合っている。
本気でやりあえる相手がいるってのは張り合いがあっていいよな。学生時代の俺にはついぞそんな奴は現れなかった。
「ほれリリィ、ご飯の前は?」
「おてあらい!」
「よし、行ってこい」
「はぁーい」
手洗い場に走っていくリリィの後ろをくまたんが一生懸命ついていく。どうやらまだ追いかけっこの続きだと思っているらしい。
リリィと沢山遊んでくれているし、たまにはくまたんのご飯も奮発してやるべきだろうか。好物についてカヤに聞いてもいいが……どうせ知らないだろうな。アイツはびっくりするぐらい何も知らない。
キッチンに戻ると、丁度部屋着に着替えたジークリンデが戻ってきた。共同生活に向けてわざわざ質素な部屋着を新調したというジークリンデだったが、意外にも庶民スタイルが似合っていた。
いや、元々ジークリンデといえばこっちのイメージが強かったか。学校じゃ貴族らしさを見せたことは一度もなかった。同じ貴族でもメディチとは正反対だったな。
「私にも配膳を手伝わせてくれ」
「不安だな。怪我するから皿は割らないでくれよ?」
「問題ない。今朝は無様な所を見せたが、流石に皿によそうくらいは出来る」
「本当かよ……」
……まあ、任せてみてもいいか。
皿を並べ、スープを注ぐ。
ジークリンデは慎重に動いていたが、やはりというべきか、盛り付け途中でお玉をひっくり返した。幸い被害は最小限でほんの少しスープが流しに飛んだだけだ。
「……不覚だ」
短く呟いて布巾を手に取る姿が妙に真剣で、つい笑いそうになる。
「いや、上出来だろ。今朝は卵を何個も割ったんだ、成長してるさ」
「慰めはいらん」
口調こそ硬いが、それにしては悪くない顔をしていた。何とも分かりやすい奴だ。こういう姿を周りに見せたら、固いイメージも柔らかくなりそうなんだけどな。それが出来ないのがジークリンデという女だ。
そうこうしているうちに、なんとか食卓が整う。
湯気を立てる煮込みの香りが広がると、リリィの目がまん丸になった。
「わぁ……おいしそー!」
「見た目は合格だな」
「味も文句ないぞ。食ってみろ」
「いただきますっ!」
スプーンを手にしたリリィが勢いよく煮込みを口に運ぶ。
「おいしー!」
満面の笑顔を俺に向ける。
リリィは思いついたようにスプーンで肉を刺すと、足元のくまたんにも食べさせる。どうやらエンジェルベアの舌も満足させられる出来だったらしく、くまたんが嬉しそうに跳びはねた。美味しい物を分けてやれて偉いぞ、リリィ。
その様子を見ていたジークリンデが慎重に一口、煮込みを口に含み、そして無言で頷いた。
「……美味い。肉も野菜も柔らかい。味のまとまりもいい。正直、驚いた」
「お褒めに与り光栄だね」
「調味料の分量は?」
「勘だ」
「二度と再現できんやつだな」
「うるせぇ。そん時ゃまた勘を使うんだよ」
そんなやり取りをしていると、リリィがパンを差し出してにこにこしていた。
「これ、ままにあげる!」
……まま?
スープを飲みかけたジークリンデが、ぴたりと止まる。
「……リリィちゃん、それは」
「ままっていってみた!」
リリィが屈託のない笑顔を向ける。
ジークリンデは少しだけ困ったような顔をして──けれど否定はしなかった。
「好きに呼ぶといい」
「うんっ!」
リビングが温かい空気に包まれる。この瞬間だけは、まるで本当の家族みたいだった。
俺が父親、ジークリンデが母親、リリィが娘。頭では「違う」と分かっていても────ずっと前からこうだったような、そんな錯覚が頭から離れなかった。
◆
夕食が終わると、ジークリンデが後片付けを始めた。手伝おうとすると視線だけで制される。
「料理を作ったのはお前だろう。役割を分けるのが筋だ」
「律儀な奴だな」
「そうしなければ、この家の規律が崩壊する」
「もう崩壊しかけてると思うけどな」
俺なんて、日中何もやってないからな。料理くらい作って当たり前だ。いや、毎日このクオリティを求められると辛いけどな。
ジークリンデはそのまま黙々と皿を洗い続ける。リリィはソファの上でくまたんと何やら相談中。「きょうのごはん、おいしかったね」とか「あしたもたべる」とか、声がまる聞こえだった。そんなに気に入って貰えたなら、近い内にまた作ってみるか。料理の楽しさってこういうことなのかもしれない。
俺は手持ち無沙汰になり、ジークリンデを近くで見守ることにした。
「……何だ?」
「やることなくてな、気にせず続けてくれ」
「こんな近くで見られて気にするなというのは無理だろう」
「そうか? 俺は気にならないけどな」
「私は気になるんだ」
よく分からない感覚だった。だが、現にジークリンデは落ち着きを失っている。このままじゃ今朝の再来になるのは目に見えていた。
「分かった分かった。リビングで大人しくしとくよ」
「是非そうしてくれ。もし皿を割ったら弁償するから」
妙に圧のあるジークリンデの言葉に押し出されるようにして、俺はソファに座った。とはいえ気になるものは気になるので耳をそばだてていたが、聞こえてきたのはジークリンデの大きな深呼吸だけだった。
後片付けが終わると、ジークリンデはソファの端に腰を下ろして、書類を広げた。
「仕事か?」
「魔法省の研究班が期限を延ばしてくれなくてな。やる気がありすぎるのも考えものだ」
どうやらジークリンデの承認がないと次の工程に進めないらしい。そんなもん中身を見ずにハンコを押してしまえばいいと思ってしまう俺はやはり役人にはなれない。
「真面目だな」
「お前が不真面目すぎるだけだ」
「確かに」
軽口を叩くと、視線だけこちらに向けてくる。その横顔が今朝より少し明るいのは、気のせいじゃないはずだ。どうやら料理を頑張った甲斐はあったらしい。
「……平和だな」
ポツリとジークリンデが呟いた。
「だな」
いつまでこんな日常が続くんだろう。
いつまでも──は無理だ。そんなことは分かってる。だから、せめて少しでも長くこの穏やかな時間が続けばいい。
柄にもなく、そう思った。




