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「ユーリは眠ったの?」
「はい、さっきようやく」
そう、と重いため息を吐き出したのは、ラザフォード教授だった。
教授がティンシャ山のシュタイン家にやって来たのは、センセイが旅だった翌日だった。
その事を知った教授は、間に合わなかったかと顔を歪めて呟いた。
父親が遠くへ旅に出た事、これからはラザフォード教授がユーリの後見人になる事、この家を引き払って街へ住んで、学校にも通う事などを、残された娘はどこか淡々とした表情で聞いていた。
リビングのソファに腰かけていた教授の前に、リーフェイはコーヒーを差し出した。
そしてそのまま自分の部屋に戻るつもりだったのだが。
「少し話がある」と教授に引き留められた。向かいのソファに腰掛ける。
教授は少し言い淀んだあと、尋ねた。
「きみは、何をどこまで聞いてる?」
「多分、ほぼ全てです。センセイが奥さまを探しに行かれた事を」
「そう。それで、きみは止めなかったんだね」
疲れたような声音に、少し非難めいた響きが混じる。
「ええ。あそこまで思い定めているヒトを説得するなんて、わたしには出来ません。それに……あまりに強い願いを持ち続けると、やがて自分ばかりか周りも損なうことになりかねません」
望みに蓋をして生きる事に、センセイが耐えられたと思いますかとリーフェイは尋ねた。
教授はリーフェイをじっと見つめた後、静かに尋ねた。
「それは、リン一族としての見解かい?きみたちこそ、もと居た世界に帰りたいのじゃないかい?」
「……教授、一体なんの事ですか?わたしの家は“一族”などというたいそうなものじゃありませんが?」
とくりと跳ねた鼓動は無視して、リーフェイは平静を装って答えた。
しかし教授は追及の手を緩めなかった。
「僕はいささか妙な所と縁があってね。そこできみたち一族の事は聞いたんだよ。災いを逃れるためにこの世界へ来た一族があるってね」
リーフェイはため息をついた。そこまで知られているなら、隠してもしようがないと思ったのだ。
「ええ、わたしの一族については教授のおっしゃるとおりですが、いまさら皆が皆帰りたいと思ってるわけじゃありませんよ。もしかして教授、わたしのことを以前から知っていたんですか?」
「ご明察。だからきみの友人に、ハウスキーパーの件を話すよう頼んだんだよ。まあ彼はそれは口実だと思っていたみたいだけどね」
何の口実だろうとリーフェイは首を傾げたが、それについて教授は何も言わなかった。
「なぜ教授はわたしをここで働かせたんですか。わたしには特別な力はありませんよ。もしかしてセンセイも、わたしのことを知っていたんですか?」
「いいや。あいつは何も知らなかったよ。そもそも僕はあいつがしようとしていた事に反対していたんだから」
「だったら、なぜ?」
「僕にもわからない。あいつの助けになればいいと思ったのか、探しに行く術はないと引き留めて欲しかったのか……叶わない望みを抱き続ける絶望を伝えて欲しかったのか。まさかそのまま送り出すとは思わなかったよ」
「どのみち、教授の考えた事も大概自分勝手ですね。ご期待に添えず申し訳ございませんでした。まあわたしにも事情がありましたので、ここでの引きこもり生活は有り難かったですけど、ね」
教授の思惑はともかく、それには心から感謝いたしますよと言えば、教授はばつの悪そうな顔をした。
「きみには、巻き込んですまないと思ってる。そして、とても感謝している。きみじゃなかったら、あいつもユーリも、ここで、あんなに楽しそうに暮らすなんて出来なかっただろうから」
リーフェイは彼らとともに生活した三年間を思い返して、微笑んだ。
「それについてはわたしの方こそ感謝します。思いがけないほど穏やかな生活を送れましたから」
リーフェイは過去形で語った。
閉ざされた空間はひらかれ、リーフェイはここを去らねばならない。
やれやれ、またあの煩わしい日々が始まるのかとうんざりする。
いい加減あの一族も諦めてくれればいいのだけど、と。
「ひとつ、聞いていいかい?」
「なんでしょう」
「きみは、元居た世界に帰りたいとは思わないのかい?術があるかどうか、力があるかどうかは別にしても」
「わたしやわたしの家族に関して言えば、ちっとも帰りたいなんて思ってませんよ。ここへ来る事が出来た事じたいが奇跡的なことと伝え聞いてます。既に代を重ねて久しい。たとえ帰る力があったとしても、はたしてそこは本当に帰りたかった場所なんでしょうかね。帰りたいと望む気持ちまで否定する気はありませんが、ヒトを巻き込まないでほしいとは切に思います」
「きみは、ここで生きて行くと決めているんだね」
「そんな大層な決意はしてませんよ。ただわたしの一族の大半にとっては“楽土”は元居た世界なんでしょうが、わたしにとっては、それがここだと知っているだけです」
そして、とリーフェイは言葉を続けた。
「センセイにとって“楽土”は奥さまの傍だったんでしょう。呼吸する空気が必要なように、センセイは奥さまが必要だった。センセイがあのままここに居たら、わたしの一族みたいに歪んでしまっていたでしょう。だから、センセイの選択は、最善とは言えなかったかもしれませんが、幾つかある選択肢の中では、マシなものを選んだんじゃないかって、わたしは思います」
だから、教授が間に合わなかったと悔やむ必要はない。
教授は少し俯いて、額に手をあてていた。そして小さな声で呟く。
ありがとう、と。
「本当に行ってしまうんだ」
「うん、ごめんね」
リーフェイはユーリたちより一足先に、ティンシャ山を去る事にした。
どうせなら街まで一緒に降りようとラザフォード教授もユーリも誘ったのだが、リーフェイはやんわりと、だが頑なに断った。
リーフェイが山を去る日はよく晴れていた。荷物はすべて送る事にしており、リーフェイは身の回りのものだけを持って山を下る。ここへ来る時も移動手段が限られているため、とても大変だった。その道のりにうんざりしてひそかに遠い目をして……悄然と項垂れるユーリの頭を撫でてやる。
リーフェイの背丈を追い越すほどに成長したユーリだけど、まだその仕草は幼い。
悲しげな顔を見ると心が痛んだ。
「じゃあ、また会える?会いに来てくれる?」
「……ごめんね。わたしも遠くに行くから、多分無理だと思うわ」
その場限りの口約束はしたくなかった。リーフェイの事情にユーリを巻き込むわけにはいかないから、自分からユーリに会いに来る事はないだろう。
ユーリは泣きそうに顔を歪めた。
ユーリの背後にはラザフォード教授が居て、その場限りの嘘さえ言わないリーフェイに、苦笑いをしていた。不器用なことだと言いたげだ。
ユーリが泣き出す前にと、リーフェイはポケットの中から、小さな珠を取り出してユーリの方に差し出した。
「会いにはいけないけど……これをあげる」
「なにこれ」
「また会えますようにっていう、お守り。もともと一つのものを二つに分けたものなの。強く願っていれば、いつかはまたひき合せてくれるかもしれない」
ユーリはそっとその蒼い珠を受け取ると、大事そうに握りしめた。
「それじゃ、またいつか、ね」
ユーリは小さく頷いた。ユーリの肩に手をかけた教授にも「色々お世話になりました」と挨拶をして、リーフェイは彼らに背を向けて歩き出した。
センセイに頼まれていたんだろう。
教授はリーフェイに新しい仕事先や住居を用意してくれていた。
でも、はいそうですかと受け取るわけにはいかなくて。
リーフェイは最後まで言を曖昧にして首を縦に振らなかった。山を降りる前、教授が渋い顔をしていたのはそのせいもあるだろう。
ただ、リーフェイとしてはそこまで世話になるわけにはいかないと思う。
厄介な一族の存在もあり、出来るだけ関わり合いを持たない方がお互いの為だ。
だから街へ着くなり教授と連絡もとらず、行方をくらました。あの家で暮らしていた時の荷物は全て失くしてしまうことになるけど、少しそれが悲しいと思ったけれど、全部を持ってはいけないのだから、仕方がない。
山を降りてそろそろ五年が経つけれど、リーフェイのもとには未だ一族からの接触はない。
山にこもっていた間の三年が、よい目くらましになっているのだろう。
このまま気付かれないといいなあと思いながら、家族にだけはそろそろ連絡が取りたいとも思うのだ。
便りがないのが元気な証拠、いつかひょっこり連絡があるでしょうと、リーフェイの家族は思っているだろうか。それならばいいのだけど。
「さて、取りあえずこれを片づけてしまいますか」
リーフェイは腕まくりをして、目の前に積まれた本の山に取りかかる。
とある街の図書館にリーフェイは勤めていた。ふらりと立ち寄った先で丁度求人を見つけたのだ。小ぢんまりした街であり、利用者は近辺の者のみらしいといった点が決め手になったのだ。司書の資格、とっておいてよかったなあとリーフェイはしみじみ思った。
ただ前任者がいい加減な人だったらしく、本の分類がめちゃくちゃだわ、破損しているものが多数あるわで、初めて職場に足を踏み入れた時、思わず遠い目をしたくなった。その横では、アシスタントのふくよかな女性が、その気持ちはよくわかるわあとしきりに頷いていた。
「私も、前任の人にかなり言ったんだけど、聞き入れてくれなくてねえ。臨時雇いがあれこれ口出すのも出来なくて。せめてお掃除だけはきちんとしてたんだけど」
リーフェイの驚きを見てとって、アシスタントの女性……ミセス・ルードは頬に手をあてて、困ったようにため息をついたものだった。
ミセス・ルードにあれこれ手伝ってもらいながら、奮闘した結果。
今では何とか図書館の面目を保てるレベルになった、と思う。ミセス・ルードはよく気のつく人で、リーフェイも何かと助けられていた。何せ資格はあるものの、実務経験は皆無である。
それなりに忙しく、それなりに楽しい日々が続いていく中。
それでも、リーフェイはふとした拍子に思い出す。
ティンシャ山で過ごした日々の事、センセイとユーリの事、そして。
ふるふるとリーフェイは頭を振って、浮かんだ面影を追いだす。
今日は休館日明けで、返却や貸し出しで利用者が多いだろう。
現に返却ポストから上がって来た本で、カウンターは山になっている。
「さ、お仕事お仕事……あら、こんにちは」
「こんにちは。この前予約した奴、入っとるかな」
「はいはい、少々お待ち下さいね……ええ、入ってますよ。貸出しの手続きしますね」
リーフェイは常連に予約の本を渡す。ほんの少しの間働くつもりが、いつの間にか五年経っているなんて、ねえと心の中で呟いた。




