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あっという間に日々は過ぎる。ユーリの背はすくすくと伸びて、小柄なリーフェイは背を抜かされてしまった。センセイは相変わらず研究に没頭していて、昼夜逆転の生活を送っている。煩わしい許可を取ってまで、誰かがリーフェイに会いに来ることもなく、平穏な生活が続いていて。
いつの間にか、この暮らしがずっと続いていくものと思っていたのだけれど。
あっけなくそれは終わりを告げる。
センセイから告げられたとき、リーフェイはとても驚いたのだった。
そのあと、とても苦い気持ちになった。
このままの日々が続く保証など、はじめからなかったのに。
朝食のあと。いつもはすぐ部屋に戻って眠るはずのセンセイが、珍しくキッチンに残っていた。
ユーリは朝食を食べ終わるとすぐに、外へ出かけて行ってしまった。
食器を洗う音だけがキッチンに響いている。
「契約の更新のことなんだが……」
何の前触れもなく唐突にセンセイは言った。
三年近くも一緒にいれば、ほぼ用件のみの端的というには味もそっけもない物言いにも慣れる。
言葉の間を読む事にも。
そろそろ次の更新の事を言う次期だとわかっていたので、洗い物の手を休めずに、リーフェイは答えた。
「条件は前と同じで構いませんよ」
「いや、そうじゃなくて。実は」
珍しく言い淀むセンセイに、リーフェイは手を止めて振り返る。
「センセイ?」
「突然で悪いが、契約の更新はしない。きみにも都合があるだろうから、準備が出来次第この家を離れるということで構わない。この家に居る間の給料は払うし、もしよければ戻った先での住まいや働き口などの紹介もさせてもらう」
「ちょっとセンセイ、あんまり急な話で、頭がついていけないんですけど!ええと、それはもしかしてセンセイたち、ここを離れるって事ですか?」
それならハウスキーパーがお役御免になる理由もわかる。ここはリーフェイにとっては楽園みたいな場所だった……誰もが不用意に近寄れないという意味で……が、とうとう楽園から出る時が来たか。
「まあ、そうだな。きみには長い間世話をかけた」
いささか歯切れ悪くセンセイは答えた。流れる水を止め、リーフェイはセンセイに向き直る。
「それがわたしのお仕事ですから、当然のことをしたまでですけど。ただ、ここを離れるにしたって、センセイの新しいお家でもハウスキーパーさんは必要ですよ?少しはユーリにあれこれ教えましたけど、ここを離れたら、ユーリも学校に通ったりするんでしょう?あの子一人で家の事を全部するのは無理ですし」
何だか事情がありそうで、今まで言いにくい事だったけど、これで契約が終わるのだし。
ついでのように聞いてみた。
「……ああ、そうだな」
虚をつかれたような顔でセンセイは答える。何だか変な感じがして、これを逃せば機会はないしとリーフェイはもう一つ気になっていたことも尋ねてみた。
「センセイ。今まで聞きたかったんですけど、ユーリに男の子の格好をさせてたのは何故ですか?あの子、センセイがそうするように言った、って話してくれましたよ。ご存知でしょうが体はどんどん成長します。早い子だと、そろそろ大人の体になってきますよ?」
「……ああ、そうだったな。本当に君には色んな心配をかけていたようだ。あの子のこれからについては、心配ないよう取り計らってある。きっと私がいなくても大丈夫だ」
「私がいなくても?センセイ、どこか遠くへ行かれるんですか?」
ああ、とセンセイは遠くを見つめるような眼差しで答えた。
「とても……とても遠い場所へ行くよ。帰れないほど遠い場所へ」と。
よかったら少し話を聞いてくれないかとセンセイは言った。
柄にもなく誰かに聞いてもらいたいようだ、とも。
自分の事なのに他人事のように言う突き放し具合がセンセイらしくて、リーフェイは少し笑った。
ユーリの母親というのが、この世界へ落ちてきた異世界人だと言ったら、きみは信じるかい?
センセイの言葉に、リーフェイは目を丸くした。内心どきりとしたのは内緒だ。
「そういうお話なら、たくさん言い伝えられてますけど。あの……」
「突然こんな事を聞かされたら、戸惑うのもわかる。けれどきみが信じようが信じまいが……妻は突然私の目の前に現れた。まるで、この世界では見た事がないような格好をしてね」
「センセイは、奥さんが、異世界から来たって、すぐに信じたんですか?」
「すぐには信じられなかったさ。でも私は学者だよ。彼女が現れたとき、空間に大きな異変があったのをデータで見ていた。その矢先の事だった。信じるしかなかったよ」
「それから、センセイと奥さまはずっと一緒におられたんですか?」
「そうだね、行きがかり上私のところで面倒をみる事になって……でも、気がついたら妻に面倒をみられてたよ。そうして、ユーリが生まれて、このままずっと一緒にいられるものだと思っていたんだ」
過去形で話すセンセイに、リーフェイの鼓動が跳ねる。
「奥さまは、どうされたんですか」
「妻はね……ある日突然消えたんだ。私の目の前で、空気に溶けるようにね。何の前触れもなかった。私には引き留めることも出来なかった。あまりのことに信じられなかったよ」
ふとリーフェイはある事に思い当たり、尋ねた。
「そのとき、ユーリは幾つだったんですか?」
「二つか三つ、そのくらいだったよ。それが何か?」
「ユーリが言ってたんです。小さい頃は普通に女の子の格好をしていたって。今のセンセイのお話を聞いて思いました。ひょっとして、センセイがユーリに男の子の格好をさせるようになったのって、奥さまが居なくなってからじゃないですか?」
「そういえば、そうだな……妻のように、どこかに行ってしまう事が……知らない世界に連れ去られる事が怖かったのかも、しれないな」
本来の性別と異なったものを身にまとい、異なる振る舞いをすることで“災い”をさけられるようにと願ったのか。リーフェイはそう推測した。
「本当に、あの子にとっては、私はちっともいい父親ではなかったね。あの子の望みをかなえたこともなく、そして今度は、二度と帰らない旅に出ようとしているのだから」
「旅、とは……もしかして、センセイ、遠くへ行くって、それは」
「そのまさか、だよ。私は妻を探しに行く。何年もかかってその方法を見つけた。辿りつけるかどうか確証はないし、戻って来られる確率はなおさら低い。だから二度と帰れないと言ったのさ」
「奥さまを探しに、異世界に行くつもり、なんですね」
「ああ、そうだ」
「二度とユーリに会えないかもしれないってわかっていて……残されたあの子が、とても哀しむってわかっていても、ですか」
「そうだ。酷い父親だろうが……私はどうしても妻に会いたかった。そしてその手段を見つけてしまったんだ。酷い父親だと、きみも私を非難するか」
「きみも、という事は、わたしの他にどなたかセンセイの事情をご存知なんですか?」
「アンリは知ってる。再三ここを出て街で普通に暮らすよう言ってきたし、もっとユーリの事を考えてやれと怒っていた。私が妻を探しに行くと言ったら大反対されたよ。それでも最後には後の事は引き受けると言ってくれた」
「そうですか……ラザフォード教授も知っていらしたんですね。ユーリの事は、全部教授にお任せしているんですね」
「そう。きっと私などよりずっと、いい環境をユーリに与えてくれるだろう」
「そうですか……」
吐息交じりに呟いたリーフェイを、センセイは不思議そうに見おろした。
「私はてっきり、きみにも非難されるものだと思っていた。それに、あの子を残して行くなと反対されるものと思っていたんだが」
リーフェイは肩を竦めてみせた。
「そこまで思い定めているヒトに何を言っても無駄でしょう?わたしはセンセイたちにとっては傍観者にすぎませんし。それに……残していく方だって辛いっていうのは、わかります」
センセイは口を開きかけ、でも結局何も言わなかった。リーフェイは、センセイがまるで一時の旅に出るような気軽さで尋ねた。
「いつ、行くつもりなんですか?」
「明日、ユーリが出かけている間に。自分勝手なのは百も承知だが、アンリが来るまでユーリの傍に居て貰えないだろうか」
「わかりました。教授が来るまで、わたしはここに居ます」
センセイはその答えを聞いて、少し安心したように笑ったのだった。
頭の中は混乱していても、手は慣れた仕事をこなしてゆける。そうして夜になりリーフェイは自室として与えられている部屋に下がって、ベッドに腰を下ろしていた。
「まさか、ここで“異世界”なんて聞くとは、ね」
センセイは本当に辿りつけるかどうか、辿りついても異世界へと去った妻を探し出せるかどうか、ましてここへ帰って来られるかはわからないと言った。そのうえでも、行きたいのだと。
リーフェイに止める言葉はなかった。
それでも。もしもセンセイが探している人と出会えたとしたら。
ひと目でも、再び娘に会えればいいのに、と思う。
「ああ、そうだ、あれくらいならわたしにも出来るかも」
おあつらえ向きに、今日は満月。
ひそりと呟き、リーフェイは窓を開けた。
「行ってきま~すっ」
ユーリは元気に駈け出した。今日は西の方の岩場を探検するのだという。遊び相手などいない場所なのに、子どもはひとり色んな場所を探検しては、楽しそうに過ごしている、ように見えた。
男の子の格好をして、言動も男の子そのもので。色んな話を聞いたあとでは、少し悲しく感じてしまうけれど。
「ああ、気をつけて行っておいで」
センセイはいつもと変わらない淡々とした声で、子どもを送り出した。
ユーリはひらりと手を振って、そして後ろも見ずに駆けだして行った。
これが父親との別れになるとも知らないで。
「行っちゃいましたね」
「ああ。私も行くとしよう。何があるかわからないから、きみもしばらく、この家を離れていてほしい」
「わかりました。教授が来るまではここに居ますから、心配しないで下さいね」
「ありがとう。最後まで世話をかけてすまない」
いいえ、とリーフェイは首を振った。そしてズボンのポケットを探ると、センセイの方へとてのひらを差し出した。
「センセイ、気休めのおまじないみたいなモノですけど、邪魔にならないなら持って行って下さい」
「……これは」
リーフェイの手のひらには、チェリーの粒ほどの大きさの、蒼い珠が載っていた。
「おまじないの道具です。望む人と、再び会えますようにっていう。これは対になっていて、もう片方はユーリに渡します。二度と会えないよりも……いつか、どんな形ででも、また会う事ができたらいいのにって思うから」
リーフェイの顔と珠とを見比べ、センセイはそのちいさな珠を摘み上げ、てのひらに握りしめる。
「……ありがとう」
リーフェイは首を振り、そして家の外へと向かった。
しばらくして。家の周りをまばゆい光が包んだ。音もなく光の柱が天に向かって伸びる。
瞬きひとつの間に、光は消え……そして。主を失った屋敷が残された。
そうして。




