7
ラズフィスは窓際に椅子を引っ張ってくると、めぼしい本を次々と取り出した。
両手に抱えられるだけ抱え、よたよたとよろけつつ出窓まで運ぶ。
ラズフィスは窓の前に本の山を作り上げ、満足そうに息を吐いた。
自分は書物を読むのは速い方だが、それでもこれだけの本が読めるか分からない。
一つ気合いを入れ、彼は天辺の本を手に取ると、椅子に腰を落ち着けて本を開いた。
それから暫く経った頃、室内にドアを叩く音が響く。
物語の世界に夢中になっていたラズフィスは、一拍置いてはたと顔を上げた。
返事を返すと入り口が開き、オリスが薬の瓶を片手に入ってくる。
「お待たせしました」
ラズフィスはパッと表情を和らげ、本を小脇に抱えて彼女に駆け寄った。
「オリス!」
ラズフィスのはしゃいだ様子に、オリスは小さく笑い声を立てる。
満面の笑みで自分を見上げてくる彼の頭に手を置き、小首を傾げて問いかけた。
「気に入った本はありましたか?」
「うん、これ。とってもわくわくしたよ」
「そうですか、それは良かった」
彼女の質問に、ラズフィスは今まで読みふけっていた物語を掲げてみせる。
それは、大海原が表紙に描かれた、少年が好む壮大な冒険の話だ。
主人公の少年は貨物に紛れ、偶然海原へと旅立つことになる。
彼はその道中で様々な事件に遭遇し、仲間を得て、七つの国を巡り、本当の宝とは何かを知るのだ。
良くある話だが、本の持ち主はその中に出てくる、古代魔術文明の残る国に興味を引かれたようだった。
そこから読み始め、結局は全巻を揃えてしまうところが、あの人らしいと言えばあの人らしい。
嘗ての日々を思い出しながら、オリスは柔らかな幼子の髪を撫でた。
「では、傷の手当をしますかね」
くすぐったそうに身を捩るラズフィスに笑いながら、彼女は彼の頭から手を離した。
「そこに座って、膝を出してください」
オリスは今まで彼が座っていた、窓際の椅子を指差す。
そして、己は入り口脇の棚に近付き、中から救急箱を取り出した。
オリスはラズフィスの前に戻ってくると、しゃがみ込んで救急箱の蓋を開ける。
中に入っている物を確認しつつ、ピンセットと敷布、綿球を取り出した。
綿球に、作って来た薬液を浸し、その内の一つを持ち上げる。
「少し染みますよ」
一言声をかけ、彼女はラズフィスの膝に綿球を押し当てた。
「っ!」
ビリッと痛みが走り、ラズフィスは思わず肩を竦める。
しかし、涙目になりながらも拳を握り、唇を噛み締めた。
「おやまぁ、随分と我慢強い」
そんな彼を見上げて、オリスは驚いたように目を丸めた。
この年代の子供なら、消毒液の痛みに喚いてもおかしくはない。
だが、目の前の幼子は健気にもそれを我慢しているようだった。
あの男と同じ血が流れているとは思えませんねぇ、などと呟いてから、オリスは慌ててラズフィスを見やる。
つい口に出してしまっていたが、どうやら痛みと戦う彼には聞こえていなかったようだ。
小さく溜め息を吐いてから、最後に傷口にガーゼを当ててテープで固定する。
「お終いです、よく頑張りましたね」
処置の終了を告げると、ラズフィスはあからさまにほっと息をついた。
オリスは救急箱を片付け、残った薬も棚にしまう。
「怪我はこれで良いでしょう。城にもどったら、念のため医師に診せてください」
炎症を抑える成分も入ってはいるが、注意するに超したことはない。
オリスの言葉に、ラズフィスは神妙に頷いた。
「さて、次は、あなたを無事に送り届けなければ」
彼に笑みを返してから、オリスは気持ちを切り換えるように一つ手を打った。
そして、少し悩むように口元に手を置き、僅かに目を細める。
「結界も張りなおしたばかりだし、多少融通はきくかな」
独りごちてから、オリスは唯一棚が置かれていない壁へと近づく。
そこには何か大きなものが壁掛けられており、茶色の布が被せられているため、それが何であるかは分からない。
彼女は布の前で立ち止まり、徐にそれを取り去った。
現れたのは銀の縁取りの鏡で、ラズフィスの背丈より長く、母の部屋にある姿見と同じくらい大きそうだ。
その鏡を軽く点検してから、オリスは彼を手招いた。
「こちらへ来てください」
ラズフィスが鏡の前に立つと、オリスは蔦の彫られた縁の部分を指差した。
「その前に立って、鏡の縁に手を当てて」
言われた通りに鏡に手を当て、ラズフィスは指示を仰ぐように、隣に立つオリスを見上げた。
彼女は自らも鏡に手を添え目を瞑ると、小さく呟き魔術を構成させる。
ラズフィスは目を丸めつつ、淡く光るオリスを見詰める。
こんな不思議な塔を使いこなしているのだから、只人ではないと思っていたが、彼女は黒にも関わらず魔術が使えるらしい。
己の母も同じだが、そのような人達を、魔女の末裔と呼ぶのだと教わった。
感心している間に、オリスは術を完成させたらしい。
唐突に彼女の夜色の瞳と目が合い、ラズフィスは肩を跳ね上げた。
そんなラズフィスに、不思議そうに小首を傾げてから、オリスは視線で鏡を示す。
「真っ直ぐ鏡の前に立って目を閉じてから、お母様の事だけを考えてください」
彼女に促され、ラズフィスは慌てて目を瞑った。
本を読む時のように意識を集中させ、母の事を思う。
すると、次第に森へ入ったときの不安が甦り、散歩に来る前に母とした約束を思い出した。
森は恵みを齎す優しい顔と同時に、恐ろしい顔も持っている。
決して、1人で森の中へ入ってはいけないと、母は真剣な表情で話していた。
最初にこの森に足を踏み入れた時はいとこ達と共にいたが、結果として自分は1人で森に入ってしまったことになる。
(おかあさま、きっと、しんぱいしてる)
「この女性かな?」
ラズフィスが、早く帰らなくてはと考えた時、オリスが小声で呟いた。
思わず目を開けると、鏡の中に母の姿を捉える。
嬉しさに顔を輝かせたラズフィスに、彼女は確認するように問いかけた。
「この方が、あなたのお母様ですか?」
元気よく返事をしかけて、ラズフィスは、はたと考えた。
母は王妃であるため、公共の場にも姿を現している。
その王妃が母であると知られれば、自ずと自分の正体がばれてしまう。
オリスになら教えても良い気はするのだが、何となく口ごもりながら、ラズフィスは怖ず怖ずと頷いた。
「そうですか。では、塔を出ましょうか」
だが、オリスは特段興味を示さず、一言返すと再び鏡に魔術をかける。
すると、母を映し出していた鏡は只の鏡へと戻った。
今は不思議そうに覗き込む、ラズフィスの姿があるだけだ。
その鏡に再び布をかけてしまうと、オリスは彼の背を押し、扉の方へと誘った。
「お母様のもとへ送ってあげます」
背を押されながら己を振り仰ぐラズフィスに、彼女は笑みを返した。
*************
再び動く床に乗って下まで降り、二人は塔の外へと出る。
オリスが入り口を軽くなぞると、開いた時のような重い音を立てて石壁が閉じていく。
完全に閉まってしまうと、見た目にはどこが入り口だったのか全く分からない。
石壁を叩くラズフィスを残し、オリスは塔から離れて近くの茂みに歩み寄った。
不意に宙に両手を伸ばすと、何かを捕らえるようにそっと握り込む。
そして、ほんの少し手の隙間を開け、中にいる何かに小さく囁く。
「オリス?」
ラズフィスが首を傾げていると、彼女は近づいてきて彼の前で両手を開いた。
中からふわふわと舞い出てきたのは、一匹の蝶だった。
蝶は挨拶でもするかのようにラズフィスの顔の前を飛び回り、最後にオリスが差し出した指に止まる。
鮮やかな羽を広げたり、閉じたりを繰り返す蝶をじっと見つめてから、ラズフィスは問うように顔を上げた。
「蝶に軽い魔術をかけてあります。道案内をさせますから、見失わないようついて行ってください」
「ほんとう!? このこについていけば、おかあさまとあえるの?」
満面の笑みを浮かべたラズフィスに頷いてみせてから、オリスは蝶が止まる手を軽く動かす。
すると、それに促されるように蝶が飛び立った。
蝶を追いかけようとしたラズフィスだったが、ふと思い立ち足を止める。
振り返ると、不思議そうに小首を傾げるオリスへ駆け寄った。
「ねぇ、オリス。また、あえる?」
弾む息のまま問いかけてきた彼に、オリスは驚いたように目を見開く。
だが、ほんの少し眉を下げると、静かに首を横に振った。
「どうして?」
頷いてもらえるとばかり思っていたラズフィスは、くしゃりと顔を歪ませた。
「私とあなたは、本当なら出会うはずではなかったからです」
どこか寂しそうに笑い、オリスは目を細めた。
今にも泣き出しそうなラズフィスに、彼女は困ったように苦笑する。
オリスはその場にしゃがみ込み、彼の瞳を覗き込んだ。
とうとうポロリと零れてしまったラズフィスの涙を、オリスは親指の腹で優しく拭う。
そうして、そっと額に口付けると、人差し指を立て己の口元に寄せた。
「良いですか? ここであったこと、皆には秘密ですよ」
「ひみつ? おかあさまにも?」
首肯を返し、オリスは続ける。
「幼いあなたにとって、毎日はとても刺激的なもの。誰にも話さず思い出さずにいれば、私の事もこの森での出来事も、すぐに記憶の彼方に追いやられるでしょう」
多くの事を学び、多くの人と出会い、幼子は成長していく。
特に、彼は人の上に立つ人間なのだから、学ぶべきことは同年の子よりも多いだろう。
幼い日のとるに足らない出会いなど、直ぐに記憶のかなたに忘れ去られるはずだ。
「それが良い。それで良いんです」
オリスの言葉に、ラズフィスは必死に首を振る。
しかし、彼女はゆっくりとラズフィスを撫でるだけで、自分の想いには答えてくれない。
「あなたが憂うことなどないんです。ただ、これまでと同じように学び、悩み、笑えば良い。そうすれば、怖かったことも、寂しかったことも、何もかも忘れられますから」
そんな寂しいことは否定したいのに、上手く言葉にできないことがもどかしく、次から次へと涙が溢れて止まらない。
だから、飽きもせず己の涙を拭い続ける彼女の顔を、ぼやける視界で見つめ続けた。
だって、本当に忘れた方が良いと思っているなら、どうしてオリスはこんなに悲しい顔をするのだろう。
笑ってはいるけれど、全て諦めてしまったような、そんな寂しげな笑顔など浮かべて欲しくなかった。
しゃくりあげ、整わぬ呼吸のまま、ラズフィスは彼女に問いかけた。
「どうして、あなたのことも、わすれなくちゃいけないの? せっかくあえたのに」
泣きながら、なおも言い募る自分に、彼女は言葉をなくす。
そして、あのどこか寂しげな笑みを浮かべると、己の頭を優しく撫でた。
「覚えていても、良いことなど何一つないですよ」
彼女は一瞬目を閉じ、気持ちを切り換えるようにラズフィスの背を押した。
「さぁ、もうお行きなさい。早くしないと、蝶にかけた術が解けてしまう。そうなっては、お母様の元へ帰れなくなりますよ」
後ろ髪を引かれつつ、ラズフィスは再び飛び始めた蝶を追って走り出した。
駆けていくラズフィスの背に向けて、オリスは小さく呟いた。
「さようなら。我が友、ヴェルダカトルの血を継ぐ子よ。――どうか、息災で」
風に巻き上げられる己の黒髪を抑え、オリスは目を細める。
小さく溜め息をついた彼女は、踵を返して歩き出した。
もし、この時にラズフィスが振り返っていたなら、驚きに目を見開いていたことだろう。
オリスの姿が、まるで空気に溶けるように消えたのだから。
やがて、石壁の塔も、少しずつ下の方から消えていく。
数分の後、あの巨大な塔の姿は、どこにも無くなっていた。
風に揺られ、葉がさわりさわりと音を立てる中を、一羽の兎が姿をみせる。
兎は鼻をピクピク動かしていたが、塔のあった場所まで進んでいく。
そうして、一際高く飛び跳ねた後、その姿を消した。
一方、ぐずぐずと鼻を啜りながら、ラズフィスは軽やかに飛ぶ蝶を追い掛けていた。
どれだけそうして走っただろうか、暫くすると、迷っていた時に見たような景色に変わってきていた。
少しずつ日が当たることも多くなり、辺りも段々と明るさを増していく。
不意に、己の名を呼ばれた気がして、ラズフィスは足を止めた。
その直後、彼を先導していた蝶が、頭上をくるくると回り始めた。
「わっ……」
銀色に光る鱗粉が降り注ぎ、ラズフィスは思わず目を瞑った。
一息の後、彼は伺うように開けた目を、限界まで丸める。
視線の先に、探し求めた母の姿を見つけたからだ。
「おかあさま!」
「ラズフィス!!」
転がるように駆け寄り、母の暖かな腕の中に飛び込む。
周りで同じように自分を捜していたらしい叔母やいとこ達も、気が付いてこちらへと近付いてきた。
「ラズフィス、心配したのですよ。あなたの姿が見えず、どれだけ気をもんだことか」
「ちょっと、みちにまよったけど、ちゃんとかえってこられました」
「あぁ、本当に良かった。魔女の森に捕らわれてしまったかと」
ラズフィスのことを力いっぱい抱きしめながら、母は安堵の息を吐いた。
彼女はそのままラズフィスを抱き上げると、セルゼオン公爵の城へ帰るために馬車に乗り込む。
叔母やいとこ達も別の馬車へ乗り込み、暫らくしてゆっくりと馬が走り出した。
身体に伝わる振動や、疲れ、母と会えた安心感からか、ラズフィスの瞼が徐々に閉じていく。
ぼんやりとした意識の中で、彼はただ一つのことだけを考えていた。
(ぜんぶ、わすれなくちゃ)
母に凭れながら、ラズフィスは心の中で、まるでそれが義務であるかのように繰り返す。
頭の片隅で、忘れては駄目だと叫ぶ自分がいたような気がするが、次第にそれもどうでも良くなる。
(だれにもひみつにして、そして、わすれなくちゃ)
そう言って約束をした女性の顔を、いつの間にか、もうぼんやりとしか思い出せなくなっていた。
それが異常であることにすら気付かず、ラズフィスの意識は眠りの底へと沈んでいった。
*************
「へ……陛下!」
侍従頭の声に、ラズフィスは我に返る。
割れるようだった頭の痛みも、今は随分と落ち着いてきていた。
大きく息を吐き出し、彼は仰向けに倒れこむと、ベッドへ身体を沈める。
片手で顔を覆い、小さく震えだした王に、侍従頭は慌てたように声をかけた。
「もしや、お加減が……」
ざわめき出した侍従達を、ラズフィスはもう一方の片手を挙げて静める。
そして、彼は突然弾かれたように笑い出した。
困惑顔の周りを尻目に、ラズフィスは見慣れた天井を見つめ、目を細める。
(どうやら、覚えていて良いこともあったようだぞ)
幼き頃、森で出会った女の顔を、今ならばはっきりと思い描くことができる。
彼女が王族に疎かったことを、今日ほどありがたく思ったことはない。
もし、彼女に自分の正体が知れていたなら、きっとあの日の記憶すら返ってくることはなかっただろう。
きっと綻びすら残さず、己の中から自分の存在を消し去っていたはずだ。
「なぁ、オリス。……いいや、ユーリ」
薄らと笑みを浮かべながら、ラズフィスは長い間、己が捜し続けた女の名を呼んだ。




